
2011年3月11日金曜日
午後2時46分、三田にある40階建てビルの6階で仕事をしていた。ふと床から振動を感じる。誰かが机の横を通り過ぎる気配がしたので、ずいぶん大柄な奴が歩いたのかと、PCの液晶画面を見ながら、なんとなく感じていた。ところが、その振動は足だけではなく、身体全身で感じるまでに大きくなり、フロアーの隅からギシギシと扉がきしむ音が響き渡る。近くの席の女性が叫び声を上げながら机にしがみついた。机の下にあるキャビネの扉が開きそうになるほど揺れは増幅する。床から突き上げるような縦揺れではなく、大きな扉が思いっきり引き開けられるような、強引な揺れだった。みんな落ち着こうとして、お互いに顔を見合わせたが、なかなか揺れが収まらず、感覚的には1分くらいだろうか、このままビルが倒れるんじゃないかとさえ思えるような状況になって、とうとうみんな顔がゆがみ、恐怖で情けない様な表情に変わった。
ようやく揺れが収まると、状況を確認しようと窓の外を見たり、急いで携帯で連絡するのだが、この時点では携帯電話はつながらなかったので、何が起こったのかすぐには判断できなかった。停電はしていなかったので、PCは立ちあがったままだった。自分はまずインターネットで速報を見ながら、携帯のワンセグでNHKのニュースを見る。震源は関東ではないことは判ったが、単なるちょっとした地震じゃないことはすぐに察した。
そうこうするうちに、また揺れを感じる。今度もゆっくりとした揺れが長く続いたので、いつでも逃げられるように、急いでランニングシューズに履きかえた。相当に大きな揺れだったので、もし古いビルだったら倒れているかもしれないと感じ、屋外に逃げるのは得策ではないとも思ったのが、外を見ると第1京浜を挟んで向かい側にあるビルでは、青いヘルメットをかぶった連中で歩道が埋め尽くされていた。もし屋外に出るにしても、ビルの周辺に待機しただけでは二次災害の恐れがある。近くの小学校などに逃げるという手があるが、地域の会社員全員を収容するキャパはないはずで、混乱するだろう。そんなことを思っていると、館内放送で全員屋内待機の指示。本当か?と疑問に感じる。ビルが崩壊したら待機指示をした一体誰が責任をとるのかと疑う。ついでにめちゃくちゃな英語で放送があり、更に指示の信憑性を疑う。避難訓練でもいつも英語はめちゃくちゃだ。やはり信じられない。
そこではじめて誰かの指示を待つのではなく、自分の判断で行動しようと心に決める。一応、ワンセグのニュースで速報を聞きながら、ちょこっとPCをいじくって当面の仕事を片づける。仕事なんてどうでもよいのに、なんとなく惰性で仕事をしてしまった。ところがニュースから聞こえてくる惨状と、静まり返った職場の雰囲気が自分の感覚を麻痺させ、なかなか自分だどうすればよいのか判断ができなかった。少しずつ冷静になり、兎にも角にも家族の安否確認が先決だと思ったが、妻の携帯には全くつながらず、移動体通信網は壊滅状態。固定電話は通じるらしく、自宅の呼び出し音は鳴るのだが、誰も出ない。北関東の実家は呼び出し音すらならなかった。
そもそも帰宅でくるのか気になりネットで交通情報を調べたら都市部の交通網が寸断されているのがわかった。JR、私鉄、地下鉄、全ての公共交通機関が運行停止になっている。復旧の目処がたっていない模様だ。ということは、自宅には自分の足で帰るしかない、と腹をくくる。」
と、突然、携帯が鳴った。発信元は知らない番号、あれっ、と思ってでたら、聞きなれない名前。声の主は、神戸の大学で先生をやっている同級生だった。実に7年ぶりの会話。弟が仙台の大学病院で医者をやっていて、何度電話をしても通じないから、心配でたまらず、電話してきたという。久しぶりの声に積もる話もたくさんあるのだが、事が事だけに、テレビやネットで知りうる情報を全て伝えて、あとは祈るしかないと言い残して電話を切った。同じく大震災に見舞われた神戸からの電話というのが何かを暗示させる。
そうこうするうちに時間が過ぎていく。そろそろ決断する時だ。最初の地震から1時間が過ぎ、もう余震も感じなくなった。試しに郵便局に行って、週明けのホワイトデーに届けるつもりだった手紙を投函する。既に歩道は人であふれていた。車は渋滞していたが、一応ながれている模様。曇り空はどんよりとしており薄暗い。刻一刻と日暮れが近づいている。地下鉄再開の見通しは全くない。人間の心理として、みんなが歩いて帰ろうと気がついたときには、街が人であふれて、パニックになるかもしれないと、人ごみの歩道を見ながら感じた。
決断の時だ。自分が帰宅できるかどうか、と言うより、安否が判らない家族のことが気になって仕方がない。子供達は恐らく学校にいる時間だったことは判っていたが、妻はどうなんだろう。勤務先のビルは半年前に建てたばかりの新築ビルだから、まさか倒壊したとは思わないが、どうしているか想像できない。このまま携帯が繋がるまで待つことは無意味だ。一刻も早く家族の安否を確認する方法は・・・そう、自分の目で確かめることだ。決断・・・走るっ!
もしシーズンオフだったら、身体の状態次第で代替経路や休憩所、う回路を頭に浮かべるべきだが、つい2週間前に東京マラソンを完走したばかり。走りこみは充分だ。実は今日も昼休みに軽く走ったのだが、身体は軽かった。ん~、もしレースの翌日だったら、筋肉痛で走れないかもしれないが、今の俺には23キロの距離は全く問題ない。植村直己が冒険の前に自分の足で日本縦断をして距離を身体に染み込ませたように、ウルトラマラソンを完走して100キロまでの距離感はつかんでいる。問題は時間帯。日の入りまで1時間も残されていない。ヘッドランプは持っていいないが、明るい幹線道路をいけばなんとかなるだろう。(この時は、まさか道が停電しているのは思わなかった)
つい3日前も、三陸沖で大きな地震があったので、偶然にも港区に作ってもらった災害時の帰宅マップを見直して、だいたいのルートは掴んでいた。その地震の直後に予知連が「1週間以内に余震がある」と記者会見で言っていたが、珍しく当たったことになる。ただし「余震」ではなく、「本震」だったが。
三田から自宅まで23キロだ。ちょうど今夜は皇居で練習しようと思って、ニューバランスのレース用ランシューズを持って来ていた。トイレでCW-Xを履き、東京マラソンのフィニッシャーズTシャツに身を包む。まるでレース前の緊張感。財布や家の鍵、コンビニで買った非常食をポケットに詰め込み、携帯電話を2台手に握る。よしっ、いざ出発だ。
エレベータが止まっているので、非常階段を降りる。2階付近の壁にひびが入っていた。このビルの耐震性は大丈夫なのか?
外で出ると、歩道を埋める人ごみでちょっと騒がしい。人の流れも両方向で一定していない。これではとても走れないと判断。幸い車の流れが、さっきより一層ゆっくりになっていたので、歩道と車道の脇をすり抜けることにした。時々オートバイが走ってくるので、避けなければならなかったが、ペースはウォーミングアップに丁度良い。この時点では、まだコンビニやお弁当屋は開店していた。
それにしても、歩道を歩く人たちは一体どこへ向かっているのだろう。動いてるはずのない地下鉄の駅を通り過ぎる時、なんとなく違和感を感じた。泉岳寺を通り過ぎ、信号待ちをしている間に、携帯をかけてみるが、ソフトバンクのマイ端もドコモの業端も全くダメ。歩行者もみんな携帯電話を耳にあててはいるが、会話をしている人はいなかった。
と、突然ソフトバンクの着メロがなった。メールだ。妻から「大丈夫?」というひと言だけのメッセージだった。この時は発信時間を見る余裕はなかったが、家に帰ってから妻に聞いたら、地震発生直後に打ったらしく、自分が受信するまで、2時間以上かかったことになる。俺も一度立ち止まり、「子供達は無事か?俺は走って帰る。8時には着くよ。体調、完璧!」と返信した。時間はサバを読んで、遅めにした。メールの発信は電波が繋がらずにエラーになってしまったが、再送予約にしたので、運よく繋がることを信じて携帯を閉じる。
信号が待ちきれないので、高輪方面に右折し、坂道を駆け上がる。気持ちが焦っているので、ペースがあがってしまうのだが、道のりは長い。ここで体力を消耗することはできないので、登りはゆっくりとペースを落とした。赤信号を避けながら桜田通りに出ると道幅は一気に広がる。片道4車線だが既に車は渋滞していて、左側は赤いテールランプが続いていた。車道の脇はオートバイがすり抜けていくので、危ないと思い、信号を渡って反対車線を走る。どうやら都心に向かう車はあまりいないらしく、道路の右端は対向車はあまり来なかったので快適に飛ばすことができた。
しばらくして五反田駅前に出る。なんと、駅前のロータリーから人があふれ、歩道橋の上まで埋め尽くされていた。あれでは引き返すこともできないから、もし余震が襲ってきたら、怪我人がでるんじゃないかと心配した。頭上に見えるJRのホームに人影はなく、構内放送が災害による運行停止を告げていた。自分が会社を出る時点で既にJRは運行を停止しているのは周知されていたはずなので、なぜ人が駅に集まってきたのか不思議に思った。恐らく「そのうち動くだろう」という楽観的な思惑ではなく、「駅がダメだと分かっていても、他に代替手段が浮かばない」という人が、とりあえず駅に来てしまったというのが、群衆心理なのだろうか。駅から離れても歩道を歩く人は増えてきた。それにしても歩道は混んでいて、みんな明らかに歩く速度は遅く、ちょっと気の毒な気がした。
右手にTOCのビルが現れ、第二京浜と中原海道の分岐にたどり着く。標識には「丸子橋 7キロ」の表示。この時点で30分は過ぎていた。日の入りまでに多摩川を渡りたいと思ったが、ちょっと時間的に厳しい。信号で待つとき自転車やバイクと並んだ。こういう時に自転車通勤は有利だ。
アップダウンを快調に走りながら、街並みを観察すると、飲食店も閉まっている店が目に付き始め、目黒線沿いの駅に近づくたびに、歩行者が増えていくような気がした。いつも通勤で乗っている電車は、こんな街を通り過ぎていたのかと思いながら、満員電車に乗るくらいなら通勤ランの方がましだとも思った。
山手通りの交差点では警察が歩行者を誘導していた。通り沿いのNTTの前に公衆電話があり、人が何人も並んでいたので、固定電話網は確保されているのだと分かったが、並ぶ時間がもったいなかったので、そのまま走り続けた。いつの間にか日が暮れ、遠くの景色が見えにくくなるに従い、道を間違えていないか心細くなってきた。車ではなく自分の足で走ったことがない道なので、不安を感じるとペースが落ちる。携帯電話は通じないので、ナビタイムは使えないが、GPS機能は使える。GPSは独立した機能だし、受信も携帯電話の電波とはわかれているので、GPS機能で地図を呼び出し、現在位置を確認。さっき通り過ぎた池は洗足池だったはず。GPSの地図は雪谷あたりを指している。うん、間違ってない。日が暮れて道が判りにくくなったことに加え、思ったより多摩川が遠いと感じたせいで、不安になったが、道は正しいことが判ったので、心持ちペースを上げた。
環七を過ぎ、環八の交差点まで来ると、もう見慣れた道だ。田園調布警察署の前に警官が立っていて、歩行者が道を聞いていた。交差点の中にも警官が立ち、下り方面の車を迂回させていた。どうやら丸子橋が渡れないらしい。もしや道が壊れたのか、と一瞬不安になって、警官に尋ねたら、単に渋滞しているだけで歩行者は渡れると教えてくれた。ほっとする。もし水害で川を渡れなかったら、帰宅ランは成す術がない。
相変わらず歩道は歩行者で混んでいて、下り車線は車で埋まっていたが、上り車線は神奈川方面から走ってくる車がほとんどなく、ランニングするには車道がちょうど良かった。ようやく多摩川にかかる丸子橋の街灯が見えてきた。歩道は両方向から歩いてくる歩行者で混んでいたので、とても走れる状態ではなく、橋の上も車道の脇を走った。対向車線は時々オートバイや自転車が走ってくるので、そのたびにガードレールにまたがりやり過ごした。この時身にまとっていたナイキのウィンドブレーカーは黒に近い紺色で、リフレクターも付けていなかったので、車からは見えにくくぶつけられないか危険を感じた。幸い手袋は東京マラソンのエキスポでもらったアミノバリューのオレンジ色だったので、手を開いて目立つように走った。川崎側から防災放送が響き渡る。「東京湾に津波警報が出されているので、川から避難するように」とのこと。そりゃないぜ、といいながら突っ走る。橋を渡り切ると神奈川県だ。
ここで綱島街道との分岐に差しかかる。この道は多摩川の土手に野球にしに行く時、よく通ったので馴染みがある。迷わず中原海道を走り続けた。車道はせまくなったので、安全を期して歩道を走った。
しばらく走っていると、なんとなく走りにくくなったような違和感を感じる。あ、街が暗い。停電だ。道沿いの街灯だけじゃなく、周りのマンションも暗く沈んでいる。商店も見えない。あ、信号も消えている。ちょっとヤバいんじゃないか・・・遠くを見ても、光るものが殆ど見えない。ところどころ明かりが見えるのは、銀行のATMと、非常電源でかろうじて光っているセブンイレブンのレジだけだった。
歩道が狭く、足元が見えないので、走るペースががくんと落ちた。この時点で15キロほど走っていたので、疲れも出始めたことに気がつく。信号が消えた交差点では警察官が誘導していたが、真っ暗で危なっかしく、オレンジ色の手袋を大きく振りながら慎重に渡る。交差点で足止めされる度に携帯のリダイヤルボタンを押し続けたが、ソフトバンクのマイ端もドコモの業端も全く繋がる気配がなかった。
高輪で妻に送ったメールは届いているのだろか、もし届いていたら、俺が今帰路についていることが判るはず。でももしメールが届いていなかったら、俺が都内にいるのか、無事なのかすらわからないことになる。俺自身も高輪で妻からのメールを見る限り、妻は無事だったことが判ったが、子供達のことは判らなかったので、心配が増長してきた。停電で真っ暗な道を走っていると、この真っ暗な中に子供たちが取り残されているとしたら、きっと心細いだろうと、気が焦り、更にペースが上がる。
野川のあたりに来ても停電は続いていて、ただでさえ閑散とした街が余計にさびしく感じた。近くに駅がないからか歩行者をあまり見かけなくなった。時々自転車が走っていたが、俺のペースより遅く、何台もぬかした。
しばらくして1車線道路が2車線に広がる。横浜市に入った。もう地元だっ!急に元気になった。もう距離感が正確に判るので残りの体力とペースのバランスを取りやすくなった。いつも練習で使っているコースと合流した。この辺りは自宅から30分から35分のところだ。つまり練習コースを通れば、あと30分程度で着く。ただし練習で使っている遊歩道は信号がない代わりにちょっと遠回りだし、もし停電地帯だったら、真っ暗のはずだと察して、中原街道を走り続けた。相変わらず道は真っ暗で、車のヘッドライトだけが頼りだったが、通り過ぎる車はまばらで足元は見えにくい。急に縁石が途切れたところでつまづきそうになり、危なく捻挫をしかけた。危なかった。体力的に23キロという距離は余裕とは言え、捻挫をしたらアウトだ。時々通り過ぎるバスはぎゅうぎゅう詰めで、しかも渋滞にはまっていていったいどうするんだろう。窓越しに見える中学生らしき子供がかわいそうだった。
通り沿いにあるガソリンスタンドでは給油を待つ車が列を作っていて、それがまた渋滞を引き起こしていた。停電の街は、とてももろい。携帯電話を耳に当てている歩行者を抜かすたびに、携帯電話網が復活しているか気になったが、会話をしている様子ではなかったので、まだ電波が繋がらないことを察する。そう言えば、走りだしていから一度も水分補給をしていないが、気温が低いからかそれほど汗をかいておらず、のども渇いていなかった。会社を出るときに、念のため飲みかけのペットボトルのお茶を持って走りだしたが、お茶は利尿作用があり、トイレに行きたくなると困るので、桜田通りに出る前の酒屋で捨ててきた。
港北ニュータウンの中に入り、高層マンションの間を走っても、マンションの明かりは全く見えない。街灯も消えていたので、車が通らなければ歩道は真っ暗だった。歩いている歩行者の服が黒だと近づくまでその存在に気がつかず、ぶつかりそうになったりした。仲町台辺りにたどり着き、ペット屋の交差点に出る。片側3車線の大通りだったが、信号が消えていたにもかかわらず、誘導している警官がいなかった。車にひかれたら嫌なので、オレンジ色の手袋を大きく振って、車を止め慎重に反対側に渡る。ここまでくれば、あとは一直線だ。道は見事に真っ暗だったが、歩道の幅も広がりペースを上げた。もうちょっとだという安ど感と、子供たちがどうなっているのか心配が増長し、限りなく全力に近づく。この期に及んで余力を残しても仕方がない。感覚的にこの時のペースはキロ4分30秒から40秒程度だったと思う。20キロを過ぎたあたりだからハーフマラソンのゴール前のラストスパートだ。
閉店して真っ暗になったガソリンスタンドの入り口には、車の侵入をふさぐようにして置かれた車のウィンドウに、「レギュラー売り切れ」と手書きで書かれた紙が貼ってあるのが見えた。きっと震災の後、ガソリンスタンドに車が殺到したんだろう。そんなことを感じさせる人気のない殺風景なスタンドだった。いつもなら誰も歩いているはずのない場所を、旅行かばんらしきを引きづりながら歩いている人や、OL風の女性をみかけた。ライトをつけていない自転車ものろのろ走っていて、あっけなく抜き去る。あの自転車は自分のかな、それとも盗んだのかな、とちょっと気にかかる。
ふと明かりが見えたと思ったら、ゴミの焼却場だった。自家発電機能を持っているのだろう。駐車場の街灯だけじゃなく、事務所の窓からも明かりが漏れていた。大きな交差点に近づくと渋滞している車の赤いテールランプがたくさん光っていた。歩道は真っ暗だったが、赤い川の流れに沿ってひた走る。ペースはキロ4分前半という感じ。まるでレースの時みたいに息が上がっていた。ファミレスがある交差点は警官が誘導していたが、ちょうどタイミングが合わなかったので、思わず左折。ひとつ信号をずらして通りを渡ろうと思ったが、その交差点では誘導している人が見当たらず、車がひっきりなしに動いていて渡れそうになかった。くそっ、もうちょっとなのに、こんなことろで車に轢かれてたまるか。アミノバリューのオレンジ手袋を大きく振り、強引に車を止めて道路を渡り切る。目の前のセブンイレブンに明かりが見えたので、何か買っていこうと思って一度はお店の方にむかったが、いや今は一刻も早く変えるべきだと思いなおし、足を自宅の方に向けた。
幹線道路から路地裏に入ると、さらに街は真っ暗だった。まるで田舎のようだ。時々車が通り過ぎるので、轢かれないように、歩道を走りながら、ペースを落とさず、走り続けた。
子供達の顔が頭に浮かぶ。どうか無事でいてくれ。とうとう遠くからリビングの窓が見えるところまで来た。カーテン越しに明かりは見えなかったが、真っ暗という訳ではなかった。暗い中にもうっすらと、カーテンが浮かび上がって見える。ということは、蝋燭のような弱い明かりがあるという証拠。ということは、きっと無事だ。思わず顔がゆがんで嬉しくなる。
玄関に回り、インターホンを押してみたが、音は聞こえなかった。停電だもんな。鍵を取りだして、玄関の扉を開けると、リビングから妻の上ずった声が聞こえた。子供達はちょっとびっくりしたのか、よく声が聞こえなかったが、「ただいまぁ!」という俺の声を聞いた途端、子供たちが駆け寄ってきた。妻も混ざって四人で抱き合う。こんなことは初めてだ。
思えば、途中苦しくなった時、思い描いたのは、家の玄関を開けたら子供達の元気な声が聞こえて、抱きついてくる、そんなことをイメージしながら、希望を抱きながら走り続けたのだ。苦しさというより、安ど感の方が強く、地震の影響や停電中だということを忘れて、しばらく動けなかった。夜でも見えるようにインディグロにセットしたタイメックスを止めたら、2時間22分だった。辺りが真っ暗だから7時半にもなっていないことに違和感があった。
水は出るようだったが、お湯はでないということで、汗はタオルで拭いただけで、水分を取るのも忘れて、まずは家の中が安全かどうか、そしてもし余震が来たときに避難できるように、避難用具を確認したあと、やっと一息つくことができた。きっとガスメーターをリセットすればお湯は出せたのかもしれないが、そこまで気が回らなかった。
妻は冷静で、日が暮れないうちに、懐中電灯と鏡の上に置いた蝋燭を家のあちこちにセットし、着替えを入れたリュックをそれぞれ準備させ、靴まで家の中に入れて、備えられることは全部やったような感じがった。余震が何度がきたから、子供たちが心細くならないように、ウノをやって遊んでいたという。いざとなれば、心強いな。幸い、イケヤで買った蝋燭が100個くらいあったので、近所の様子を見に行く口実に、蝋燭を持って外へでる。両隣に声をかけ、長女の同級生の家にいって家族全員が無事な事を確認。子供同士も安心したのかはしゃいでいた。そのあと、落ち着く間もなく、長女とセブンイレブンまで様子を見に行こうと表に出たら、ある女性が大声で叫んでいた。信号が消えた交差点で誘導するのを手伝ってくれる人を探しているという。聞けば、東京都の消防庁が管理している災害ボランティアの人だった。走ってきてまだ休んでいなかったし、子供たちを残して出かけられないので、懐中電灯を寄付することで許してもらった。後日、この人がわざわざ自宅まで来てくれて、菓子折を持ってきた。懐中電灯はどこかに行ってしまったらしく、お詫びのしるしに電池まで持って来てくれたが、律義な彼女の姿勢に頭が下がる思いがした。
停電の街を長女と自転車に乗り走る。人間の力がいかに弱いこと、電気がなくなると、何もできなくなるということを彼女に伝えた。そしてこの先どんな大震災が起きようと、今日のことを教訓にして、うろたえないことを静かに言った。
セブンイレブンは閉まっていて中にも入れなかった。近くの交差点では何人かの地元の人らしきが渋滞の車を誘導していた。事故が起きなければいいが。そう思いながら、家が見える辺りまで来た時、ふいに街灯の明かりがついた。そのあと家々の電気が着き始め、あっけなく街が街に戻った。午後9時8分。
電気が通ったので、テレビを点けると被災地の信じられない光景が映し出されていた。これはただ事じゃない、単なる震災じゃないことを薄々感じた。地震の恐怖は残っていたが、とりあえず家と言う城で守られているという安心感を感じながら、早目にベッドに入った。なんだか長い様な、短い様な、この先ずっと人々の間に語り継がれるであろう、3月11日が終わろうとしていた。

慌ただしい日々が過ぎ去り、とうとうクリスマスイブになってしまった。仕事帰りの地下鉄の中で、手ぶらで帰路についている自分に気がついて、ハッとする。慌てて途中下車をし、駅前のデパートに駆け込んだ。まだ閉店前で助かった。
まずは、青山フラワーマーケットでバラのバスケットを買った。閉店時間が迫っていたので隣にあるローラアシュレイでダイニングのちょっとしたセットを包んでもらう。子供たちにはカチューシャと髪飾り。玄関に入る前に、庭の脇に隠しておいた。
手作りのケーキを食べ終わり、一緒にお風呂に入っているときに、2年生の次女が突然聞いてきた。「学校の友達がね、サンタさんはママなんだって、言ってたよ。でも違うよね?」 「え~、サンタさんはママじゃないでしょ。だってヒゲ生えてないし・・・」 「そうだよね。でもさ、パパとママは私にプレゼント買ってない?友達がね、ママがトイザラスでプレゼント買ってたのを見たんだって・・・」「パパが買う訳ないでしょ。だって、何がほしいか書いてある手紙はツリーにぶら下げた靴下の中なんでしょ?パパ、見てないよ(妻はみたけど・・・)」
ということで、8歳の娘はどうやって乗り越えていくのでしょうか。
お風呂上がりに、長女と一緒に
バージニアからの手紙を見てみました。
「あのね、誰もサンタさんを見たことがないから、サンタさんはいないっていうのは、間違いだと思うよ。だって、パパはマグロが寝ながら泳ぐところ見たことがないけど、きっと本当だと思うもん(なんか苦しい・・・」「そうだよね。神様も、みんな見たことがないけど、いるにきまってるもんね」「そっ、そう、その通~りっ!サンタさんは神様と一緒だよ」・・・次女は僕よりも上手だった。
ついでに
NORADというサイトで 調べてみることにしました。サンタがどこから来るのか、今どの辺にいるのか調べ、安心してベッドにもぐっていった。
みんなが寝静まった頃、会社帰りに買ってきたプレゼントを取り出して、先ほどツリーの下に置いて準備完了。おっと、肝心なサンタさんからのプレゼントは・・・前もって妻が買っておいたプレゼントは一体どこに隠してあるんだろう。昨日から熱を出して寝込んでいる妻に聞く訳にはいかず、ごそごそと部屋中を探し回り、キッチンの棚の奥に宝物を見つけた。
明日の朝、子供たちの顔を見るのが楽しみだ。
子供たちがサンタさんに書いた手紙が、とってもおかしかった。
<長女>
「やさしくて、ふしきな、さんたさんへ
わたしは、ブーツか、クリアマスコットメーカーラップルスイートスペシャルのケース付きか、ポップルキュートツインキラキラDXをください。(なんのことか、さっぱりわかりません・・・)
トナカイさんには水とにんじんをあげてください」
あ、いや、あの、サンタさんが自分であげるの?用意してあげないの?・・・ちなみにテーブルには、ミルクを入れたカップが用意してありました。今年はジンジャークッキーはないんだね?
<次女>
「サンタさんへ
わたしは、でぃえすはいりません。わたしはクレーンゲームがほしいです。ください。 2年生」
「ください」ってなんか親戚のおじさんに物をねだるような感じなのかな。でもディーエスをあきらめたのは、大したもんだ・・・
ちなみに、サンタさんからの手紙は、↓こんな感じでした。
<長女宛>
「メリークリスマス。
今年もサンタさんを信じてくれて、ありがとう。
プレゼントは、ブーツにしました。
とってもオシャレで、しかも歩くのにも安全なブーツです。(第一希望のハイヒールは妻から却下されました)
今年は色々なことにチャレンジしてがんばったね。努力をしていると、かならず夢はかなうんだよ。これからも、おうえんしているからね。
来年も、信じてくれたら、かならず来るからね。
サンタクロースより」
<次女宛>
「メリークリスマス。
サンタさんを、しんじてくれたんだね。うれしかったよ。しんじてくれて、ありがとう。
今年、どんなことにも、さいごまであきらめないで、がんばったね。
だからプレゼントは、クレーンのおもちゃにしました。よろこんでくれるかな。
来年もしんじてくれたら、かならず来るからね。やくそくするよ。
サンタクロースより」
さてっと、サンタさんは役目が終わったので、寝るとしますか・・・ホッホッホッホ・・・

昼休みのランニングを再開した。夏場は暑くて汗がひかないので、秋から春にかけてがランチタイムランのシーズンになる。気温でいうと、20度くらいが目安だろうか。毎年10月から、だいたい5月くらいが限界だ。とは言え、最近気持ちよく走ることが出来る季節が短くなってきたような気がする。昼休みに走る習慣を始めたのは、確か10年くらい前だっただろうか。もちろん事務所の場所が違えば環境が違うのだが、それにしてももっと昔は気持ちよい季節が長かったような気がするんだが・・・これも地球温暖化、東京亜熱帯化の影響だろうか。
今日も空気が澄んでいて気持ちが良かったが、走り始めるとすぐに汗が出てきて事務所に戻ってからもしばらく汗が引かなかった。身体が重く感じたのは練習不足のせいだけど、ちょっと困った。でも走ることでストレスが発散できるし、なにより仕事モードの頭をリセットし、外の空気を吸うことですっきりするから苦ではない。むしろもし規則で「昼休みにランニングをしてはならない」なんていう会社があったら、絶対に辞めてやる、とすら思うほど、譲れない。
それからちょっと気になったのは、右足の膝が時々痛む。きっと週末に行ったこどもの国で転んだからだろう。久しぶりにローラーブレードを持っていって、外周路を走ったら、調子に乗ってしまい、下り坂でこけてしまった。周りにはたくさんの子供達がいて、めちゃくちゃ恥ずかしかったので、起き上がってすぐにまた走り出した。後で気がついたら、膝とひじをすりむいていた。幸い、自分の家族には見られなかったので黙っておいた。夜は、無理をせず、プールで軽く流しただけにして、家に帰ると東京マラソン事務局からメールが届いていた。「厳正なる抽選を行いましたところ、誠に残念ながら今回はご意向に沿えない結果となりました・・・」なんだよ、また今年もかよ。まあ10倍近い競争率だから仕方がないけどね。他のレースには申し込んでないし、どうしようかな。このままだとモチベーション下がるなあ・・・
今日、仕事の関係でWindows 7をいじってきた。OS会社のプレゼンによると、色々とユーザーインターフェースがよくなるとのことだったが、「えっ、この程度ぉおおおおっ!」と思わずうなってしまうくらい、あまりよくなるという気がしない。実際、デモ機も触ってみたが、殆ど実感しなかった。まあ、ビスタとの主な違いは、所詮起動時間や消費電力程度のようなので、ちょっとやそっとで実感するものではないのかもしれない。が、プレゼによると、XP(ビスタではない)と7の起動時間は、XPが32秒で、7が29秒とのことだった。もちろんHW環境で違ってくるのだろうが、たった3秒の違いが、OSを変えるほどの動機になるのだろうか。同時にXPのEOL、サポート終了も見えてきて、現実的に2年以内には乗り換えなくちゃならなくなりそうだから、PCの宿命なのだと諦めるしかないのかなあ。
昨夜は新宿で友人達と落ち合った。一人はアメリカから一時帰国した知人。自分とは初対面だったが、とても気さくで、想像していたとおりバイタリティにあふれた人柄に引き込まれた。彼女の長い努力の道のりを、彼女自身は当然のごとく歩んでいて、道のりの長さなんて、まるで気にしていない素振り、というか、そんな長旅さえも楽しんでいるようにさえ感じた。挫折寸前の自分にとっては、挫折の理由すら馬鹿馬鹿しく思えるほどの、前向きな姿勢に、言葉にすれば軽くなってしまいそうだが、エネルギーをもらったような気がした。もう一人の友人はあと3日で日本を離れ、ロンドンに旅立ってしまう。帰国は3年かもっとか、あるいはもう日本には帰ってこないかもしれないとうな気もする。活躍の場を自分で切り開き、日本と言う狭い枠から飛び出していく友人達の後姿はみなすがすがしく、頼もしい反面、取り残されていく自分が情けなくも感じる。彼女達とはきっとまたいつか会う日がくるが、それまで果たして自分は胸を張って、彼らの活躍話しに心の底から耳を傾けるような器に成長しているだろうか。今の自分は自信がない。
事務所を出ると足が自宅の方には向かず、先祖のお墓がある下町の駅に向かった。商店街の花屋はお彼岸に向けてせっせと準備をしているようで、まだ閉店していなかった。もう日が暮れて静まり返った墓地は足元も見えないくらい真っ暗だったが、お彼岸に来る時間がないので、会社帰りに寄ってお参りをした。
少し気持ちがすっきりし、スポーツクラブに行くと、いつもプールにいるメンバーが今日はなぜかスタジオにいて、トレッドミルで走ろうと思った自分を無理やりスタジオに引き込まれた。初めて見るインストラクターの掛け声で筋トレが始まった。スクワットや腕立て、腹筋を取り入れた運動で、めちゃくちゃきつかった。風呂をでてすっきりして外にでると携帯にメールが届いている。去年小笠原で会った友人からだった。「来月からタイに赴任します・・・」またしても一人グローバルに旅発っていく。そして取り残される自分。人生、なかなか思い通りには事が運ばないものだよなあ・・・