- 全脳思考

「これは、シャフリングじゃないか?」
本書に登場するCPS(Creative Problem Solving)という、アイディア発想法のパートを読んで、最初に思い浮かんだことだ。
CPSについての章を読んで最初に連想したのが、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』。1985年発行された村上春樹さんの傑作のことだ。SFと冒険小説の要素がブレンドされ、2つの物語が並行しながら、まるでDNAの二重螺旋構造のように進行する、パラレルワールドの形式が明確に最初の村上作品でもある。主人公「私」は、特殊な脳外科手術を受け、インプットしたデータを脳の潜在意識を経由することで暗号化するという、特殊な職業に従事し、高額の報酬を得る「計算士」という職業に従事しているという設定。その暗号化技術を作中では「シャフリング(混沌)」と名付けている。
本書『全能思考』で紹介されるCPSとは、自分の頭の中に浮かんだイメージ映像から、現段階では認識もできていない、言語化すらできないヒントをつかみ、ビジネス発想のアイディアとして活用しようというもの。何かまったく新しいパラダイムシフトを生み出すような発想の入り口には、過去と現在までの事象を検証していく論理思考ではなく、まったくのゼロベースから、自分の中に眠っているイメージ思考をつかって、突飛なアイディアをつかみだすという。そしてその後、いわゆるフレームワーク思考をプロセスとして取り込み、戦略を精緻なモノにしていく段取りをとる。
今や日常生活の中では、わからないことがあったとしても、ネット検索すれば、ほんとんどのことは教えてもらえる。もはや情報を持つことにさしたる優位性はないといっていい。世の中で価値を生み出すモノは、情報と知識を臨機応変に組み合わせて形にかえる、知識想像力が要求される世の中になったのだ。これがいわゆる知識社会というもの。
こうした世の中となってしまったからには、過去と現在までの情報を加工しただけで得られるアイディアは、あっという間に陳腐化してしまう。ではどうすれば、誰もが思いつかなかった圧倒的な優位性を持つ、まったく新しい、パラダイムシフトを引き起こすようなアイディアをキャッチすることができるのか?
この設問に対する本書の回答が上記CPSを含む『全脳思考』ということになる。
▼
本書はこの知識創造社会でもとめられる思考法について提言をしたものだ。ひと言でいえば、想像もしなかった理想的な未来にアプローチするビジネス思考法、といったところかと思える。過去・現在・未来の時間軸でいえば、未来をいかに先取りするかにトライした思考モデルである。また、多くのメンバーを新しいチャレンジに巻き込んでいく、マネジメントモデルでもある。
現在、ビジネスシーンで全盛となっているのが、いわゆるロジカルシンキング。その、具体的なアプローチとして持ち出されるのが、フレームワークによる問題解決法だ。かつてはマッキンゼーやボストンコンサルティンググループなどに代表されるコンサルタントたちの、特権的な頭脳労働ツールだったものだが、今では知的労働をする人たちの間でも、常識的な思考ツールとなった感がある。大手企業では新入社員の研修にロジカルシンキンやフレームワークを実施している。
たしかに、いろいろゴチャゴチャとこんがらかったビジネス上の問題を、一段階、二段階、上位の抽象概念で束ねて上げると、わかりやすくすっきりまとめることができる。したがってこの問題解決スキルはたいへん重要かつ不可欠な思考法だ。しかも、こうした考え方を身につけている人のビジネス交渉はたいへん話しが楽だ。なにしろ状況認識が早い。しかし、原則として過去から今現在までの問題点を洗い出して最適解を見つけるものといえる。つまり、問題解決策としてのアイディアは過去から現在までの事実・知識・事例を再構築することになる。
ところが、理屈で正しく、整然と整理された提案であったとしても、説得力のあるやる気が起きる施策になるかと言えば、そんなことはない。
なぜだろう?
単純だ。
それまでのやり方の問題点を指摘されると、人の感情はこれまでの実績を否定されたモノとして受け止めてしまうから、論理的に理路整然とした改革案であればあるほど、抵抗感を抱いてしまうからだ。それに仕事に限らず、これまでのやり方を変えろといわれると、逆らいたくなるのが人情だからだ。理屈で片付かない領域の問題が混ざってくるわけ。
「理論的に正しければ正しいほど、その提案は受け容れられない」
本書『全能思考』冒頭にあるロジカル思考偏重についての指摘だ。
個人的には、これまでむしろ正しいければ正しいほど受け手側の拒絶感を高めてしまう結果を招いたことは、何度となく味わった挫折感でもある。クライアントに対して、提案書を出すことの多い仕事をしている私を含めた人々は、本書冒頭の指摘に愕然とせずにいられないのではないだろうか。
すでにある事実や過去の出来事を素材に、ビジネスのアイディアがすべてロジカルな思考法で整理整頓できて、再構築したもので成立するとしたら、ビジネススクールなどを通じてロジカル思考を学んだ人はすべて成功者となっていなきゃいけない。ところが現実はそうなっていない。クライアントはもちろん自社のメンバーを含め、エンドユーザーを魅了するような新しいアイディアを生み出す要素とは、けっして論理的な思考法だけではないことは、ビジネスの現場が証明しているといっていい。
本書『全能思考』は、ロジカルシンキングやフレームワークを否定しているものではない。むしろ正反合、ヘーゲルの弁証法でいうアウフへ-ベンに近い。つまり「対立物の相互浸透による発展 」または「矛盾の止揚による発展」の原則に合致した思考プロセスを提供するものだ。もっとぶっちゃけていえば、「右脳で考えるという直感的なイメージ力も、左脳で考えるという論理思考も両方使え」ということ。思いつきやアイデアを実行可能な戦略シナリオにまで落とし込むために、段階に応じて、直感的な発想法とロジカル思考を混ぜ込んで使っていくプロセスを明示した、アイディア創出法といえる。
タイトルに冠した『全能』が示すとおり、直感的な想像力と論理的な思考法が、一連のプロセスとして本書では体系化され、示される。
ピーター・ドラッカーやアルビン・トフラーが予言した知識社会では、情報自体が高い価値を持ちえない。そして今まさにそうなった。これからは情報は当然、その先に求められる、情報と知識を編集しうる発想力がビジネスの価値を規定することになる。これは見ようによって恐ろしいことでもある。作り上げたビジネスモデルがあっという間に逆転の憂き目にあうこともあるからだ。しかし、あっという間に逆転されるということは、あっというまに逆転しうる世界でもある。
人に身におこることは、自分の身にも起こりうる。
人ができたことは、自分にも可能なのだ。
目で見て見えない未来の発想を、想像力で見る方法が提示されたのかもしれない。
2009-09-08 20:59:23|
商売
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- 1Q84(1)

著者の意図に近づいた気がしない。
発売後、3日目には読み終え、間髪入れずれず2回目に突入したにもかかわらず、つかみきれていない。とても大きく構造化された作品であることだろうということしか、今のところわからない。
■待ちに待った新作
『1Q84』は、1年以上前から長編小説に着手しているとのニュースが流れ、ファンの間では、期待に胸膨らませ待ちに待った最新の書き下ろし長編だ。2004年に『アフターダーク』という中編があったが、著者が得意とする長編作品としては2002年刊『海辺のカフカ』以来となる。
10歳の小学校4年生の時、同級生だった青豆と天吾。20年の時を経て、それぞれが、生きる世界は1984年と1Q84年。
ムラカミワールドの代表的な小説技法であるパラレルワールドが進行する。2本の物語がいくつかのキーワードとともの限りなくクロースしていく。スリリングで謎に満ちたそれぞれの物語は、いったいどんな結末を迎えるのか? 青豆と天吾は邂逅はあるのか・・・?
■謎解きされない
まだ読んでいない方のためにストーリーにはこれ以上ふれない。それにしても、まぁ面白いこと、面白いこと。他のことが手に付かなくなる。映像が流れる描写はまるで映画を観ているような感覚になるので、読書しているその時間そのものを楽しむことができるのだ。が、しかし、この作品で著者が最も言いたいことがどんなことなのか? 個人的には2002年に発行された『海辺のカフカ』でさえ、未だにわかっていないことが多い。
ムラカミワールドと表されるこの作家の物語世界は、いわゆる都市寓話と呼ばれる。作品の中に登場する人物が、ある日突然、主人公の周りから理由も不明なまま消えてしまったとしても、非日常的で不可思議な常識の世界が描かれたとしてもいいのだ。とくに謎解きもされないし、種明かしもされないし、オチもつかないままお話しが完結してしまう。ミステリーやヒューマンドラマが好きな方には、なんだかわからない世界観に引き込まれたうえ、煙に巻かれた気分になってしまうかもしれない。
「このお話しはいったい何だかよくわからない。けど、何だか世界に引き込まれたなぁ」
こんな感覚におそわれるのではないだろうか。
『不思議の国のアリス』や『ナルニア国物語』で語られるような話しが、現代版として展開されていると受け止めればいいのかもしれない。説明がつかない部分もたくさんあるけど、面白いから何回も読んでしまう・・・。
■ストーリー構造
現時点での個人的なわたしの解釈では、『1Q84』というお話しは、3本の軸によって、かなり綿密に構造化された作品であるように思える。リアル世界と想像世界としてのバーチャルワールド、人の意識はどこまで他人に理解できるのか、脱マインドコントロール。この3つのテーマをタテ糸・ヨコ糸として編み込んだストーリーが、次第に緊迫感を高めながら、クライマックスにむかっていく。
ためしに、お話しの構造をチャート化してみようと試みたが、どうもしっくりこない。まだ、「レシヴァ」の読者として、もっとも大事なファクターに届いていないのだろう。
著者の意図とは関係なく、なんとなく作者の最も言いたいことに近づけたかも、という頭の中の完結性がないまま、こうした読後感想を書くのは結構つらい。だから、立て続けに2回も読んだにもかかわらず、投稿する気になれなかったというのがホンネ。なにしろ、よくわからないまま、文章化すると、見苦しい結果に陥る場合がほとんど。そして、多分に洩れず本稿もそうなっている。ひと言でいえば白旗をあげたということになる。
1年後、あるいは3年後にこの作品を読み直したとき、まるで違う読後感をもつことになるだろうことは容易に想像できる。現時点の理解が、赤面モノの勘違いだったということになる可能性もおおいに予想できる。
それに、この『1Q84』はまだ完結していないかもしれない。
ひょっとして、作品のベースに流れる大きなテーマはそのままに、まったく違う時代とシチュエーションのストーリーがBOOK3、BOOK4として展開されるのではないのか。というか大いにそう期待したい。そこで、ひとりの村上ファンとして、大胆に遊ばせてもらおう。
たとえば続編のタイトルは『1Q94』とか、『200Q』かもしれない。
それにしても、自分たちの生きている時代に、村上春樹さんという作家さんがいてくれることに、また、原文の日本語で作品を読めることに幸せを感じている読者は少なくないだろう。
2009-06-30 07:13:16|
文学
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- 勝間和代のビジネス頭を創る7つのフレームワーク力 ビジネス思考法の基本と実践

人にも勧めたいほど、どのように本書が優れているのか? 3つ目のポイントから再開。
■ポイント3:「読者を追い詰め過ぎない、いいあんばいのさじ加減で示す『4つの実践法』」
本書のもっともすぐれている点だと私は思う。読者に対する思いやりともとれる。スキルというものは、理屈を教えることはできても、身につけるのは読者自身。身につくも、身につかないも読者の自己責任にかかっている。だから、著者としては本書を読めばすべて解決するなどと約束することは出来ない。
ノウハウを伝えるタイプの本の場合、著者にとってもっともハードルが高く、リスクの大きいポイントは読者が実践するかどうかということに尽きる。なぜなら、読んで理解し実践できた人は頼まなくとも多くの人にその本を薦めるだろう。逆に、読んで理解したけど実践できなかった読者は、出来なかった理由を本のせいして、自分をなぐさめ、かつ「内容はいいけどできないよ!」とネガティブインフォメーションとして、外部に発信してしまうことが多いからだ。
事実とは裏腹なのだが、実は理論と事例を紹介するにとどめた本は、読者の満足度が高い。むしろ実践法を教授されるより、知識の理解にとどめた方が喜ばれたりする。だから、ビジネス書でベストセラーとなるタイプの本は理論と事例で構成されたものが多い。「あなたは明日から本書に掲げた行動リストを実行するのか? どうなんだ!」と追い詰めるモノがないので気分的に楽なのだ。しかし、当然ながら身についたスキルとして実践できるかといわれると厳しい。理論と事例を読んだだけで独自に実践できる読者は100人に1人くらいの確率ではないかという意見もあるほど。本来、理想的なスキル習得パターンとは、少し学んでたくさん練習するほうがいい。知識の満足とスキルの実現、あるいは目の前の喜びに対して、良薬は口に苦くとも、後々、喜ばれる。どっちをとるのか? 1冊の本としては、このへんに水際がある。要するに理解と実践の間には、深くて険しい溝が存在するということだ。
この「深くて険しい溝」に対して本書はチャレンジしている。
たとえば水平思考力を身につける「4つの実践法」のひとつに、「他人とのかかわり」などは、個人的にウームとうならされるものがある。浮かんだアイディアを活かす実践法として、他人との関わりのなかでアイディアを醸成せよと指摘されるのだが、そこで大切なのは話す相手を選べというところ。アイディアのテーマに対して供給者としても需要者としても無関係な人に話すと。無責任な第三者としての素人マーケターになって発言することが多いようなのだ。これは実体験としてよくわかる指摘だ。本書の指摘にしたがいさっそく日々実践するに至っている。各章に収められた4つの実践法は、いきなり4つできなくともいい。できるところから実践すればいい、としたところに、読者を追い詰めすぎない、良いあんばいの絶妙なさじ加減がある。
▼
MBA留学したり、高額なビジネス講座を受講したり、ネームバリューの高いコンサルティングファームに転職するなど、ある意味、ドラスティックに生活パターンを変えないと、なんだか身につかないのではないのかと思われているのが、ロジカルシンキングやフレームワークというものではないだろうか。
本書はビジネススキルとしてのフレームワークを、生活の知恵として活用したらいいと主張する本だ。現在の環境からでもできるところから取り組めば身につくスキルだと目線を下げている。ただし、知識と知恵は違う。フレームワーク思考を使いこなすとは、意識しなくとも発揮される知恵としてのクリエイティビティのことだ。知恵は何もしないで身につくモノではない。知識というベースがあってはじめて実現に近づけるスキルなのだ。
さて以下は蛇足だが、本書のなかで論理思考を身につけるための実践法に登場する「なぜ? を5回繰り返す」を使って本書の趣旨を勝手に空想してみる。まあ、著者には失礼かもしれないが、お遊びだ。
►►第一のなぜ?
なぜフレームワーク思考を身につけるといいのか?
→これまでより付加価値の高い仕事ができるから。
►►第2のなぜ?
なぜ付加価値の高い仕事ができるといいのか?
→収入がUPするから。
►►第3のなぜ?
なぜ収入がアップするといいのか?
→自分のやりたい仕事を自分で選べるようになるから。
►►第4のなぜ?
なぜ自分のやりたい仕事を自分で選べるといいのか?
→自分でやりたいと思った仕事なら、本気になって全力を尽くして取り組めるから。
►►第5のなぜ?
なぜ自分でやりたいと思った仕事に、本気になって全力を尽くして取り組めるといいのか?
→本気になって全力を尽くせる仕事に出会えるというのは、その人自身の人生を生きることそのものだから。
掘り下げて、芯まで到達した気分だ。
普段、面倒がって手をつけない思考技術だが、やってみれば、なかなかどうして、悪くない。
<この稿、おわり>
2009-05-01 20:06:31|
学び
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- 勝間和代のビジネス頭を創る7つのフレームワーク力 ビジネス思考法の基本と実践

ありそうでなかったユニーク・ポジションから書かれた本かと思える。
どのようにユニークか?
ひと言で言えば、生活の智恵としてフレームワーク力を使いこなすことは有効でっせ、と主張をしている点だろう。ビジネス分野のワクを飛び越えている。言い方を変えれば、ビジネススキルで自己啓発する本とも呼べる。フレームワークというキーワードをタイトルに冠した本は、基本的にビジネスドメインで向上を目指すモノ、というのが本書以前の暗黙知だろう。また、ビジネススキルの本といえば、理論を解説して事例を提示するパターンがほとんどかと思う。ところが本書は生活の智恵としてビジネススキルは使える、とのポジションをとっているので、実践すること、日常で活用することにとりわけ配慮した本作りになっている。著者の言葉をかりれば、読者の「再現性」を重視したということになる。後述するが、この発信スタンスは勇気ある行為といっていい。いち読者としの個人的な評価では、英訳してアメリカで出版されたとしても、まったく違和感がないと感じている。
書店のビジネス書コーナーに行けば、フレームワークやロジカルシンキングの本は山のよう。どれを選んだらいいのかわからないほど出版されている。それだけ市場のニーズがあるということなのだが、やさしくわかりやすく解説したものから、MBAの教科書まで、掘り下げる度合いの差はあったとしても、基本的にはフレームワークやロジカルシンキングを理解しましょうよ、というポジションから発信する本がほとんどだろう。
もちろん、わかりやすく解説してくれる本がダメではないのだが、1冊を読了し、わかったつもりになっても、なかなか使いこなせない、習慣化しにくいのが、フレームワーク、ロジカルシンキング、言語力、数字力といったスキルでもある。
語学、ゴルフあるいは思考法など、知識として知っていたとしても使いこなせなければスキルとは呼べない。たとえばMECEという概念を知っていたとしても一銭にもならないが、使いこなした途端、付加価値をのせることができるということだ。しかし、多くのフレームワークに冠する本は、理解した理論をなるったけ、実践で使いましょうといったアドバイスにとどめざるを得ないというのが、1冊の本としての大枠の常識だったかと思う。日常生活の中の物の見方や意識を改めることを教授する自己啓発系の本には、実践法を解く優れた本が何冊も存在する。しかし、思考技術を解くフレームワーク思考については、行動レベルまでブレークダウンし、「再現性」にフォーカスした本はこれまでなかったと思う。
経営コンサルタントやマーケターなど、現代の知的ビジネス階層の特権的なスキルと思われがちなのがフレームワーク思考。それに対して本書のポジショニングは、どんな立場の方でも使いこなせるし、使った方が優位だと主張している。フレームワーク思考法そのものに価値を持たせるのではなく、一般の人でも使いこなせる標準的なスキルとして捕らえようと発想しているわけだ。もし、身近な人から、ロジカルシンキングやフレームワーク思考を身につけるために何か良い本を教えて欲しいとのリクエストがあれば、まよわず一等最初に薦めたいのが本書だ。
では具体的に、本書を人にもお勧めできるほど、どのように優れているのか? 3つのポイントで指摘したい。
■ポイント1:「理論解説が簡潔で、しかもわかりやすい」
これほど簡潔にわかりやすく書かれた本は実に珍しい。
ロジカルシンキングやフレームワークについて書かれた本は難しく書かれがちだ。読者側も難しい本となんとなく受け止めてしまっている。元々、日本的な発想法では全体の中の部分という俯瞰思考力を育成できる文化が薄いこと、小学校から高校まで体系的に論理思考を学ぶ機会がなかったことなどが主な原因かと思われる。論理、ロジカルと言われると、その時点で苦手意識が浮かんで避けてしまう人がなんと多いことか。しかし、本書の冒頭にも書かれているのだが、ある概念が受け手にもっとも伝わりやすい方法として確立されたのが論理思考モデルだ。これはワールドワイドの共通認識でもある。要は相手にわかりやすくしてあげるという心構えと多少の知識、それに事前に整理分類するという労力をケチらない態度さえあればいいだけ。武道でいう型のようなものであって、本来、難しいものではない。しかし、食わず嫌いとはよくいったもので、知らないモノやなじみのないものは敬遠しがちなのが人の習性だ。
本書では、今まさに現在進行形で読み進めている読者に対して、この本がどういうフレームワークで構成され、ロジカルシンキングの代表的なスキルと呼ばれる、仮説思考・MECE・ピラミッドストラクチャーなどが、どのフェーズに納められているのかが解説されている。なにしろ、今、手に取っている本から、フレームワークのひとつを構造理解できるわけだから、読みながら学習できる教材になっているわけだ。また、「フレームワーク基本21」という付録までついていてたいへん親切。この21種類の基本チャートを理解し使いこなせれば、周囲からはかなり出来る人と思われるのではなかろうか。ちなみにわたしゃ、この21のチャートをコピーしてノートに貼ってあり、あんちょことして活用している。できる人と思われているかどうかは不明だ。
■ポイント2:「ビジネススキルを統合した『7つの力』として体系化している点」
たったひとつのスキルで完結するビジネスは見つける方が難しい。たとえば、数字を見る能力があっても表現力がメチャだと重要なことを伝えることはできない。たいへん素晴らしいアイディアが浮かんだとして、問題全体のなかでどう作用するのか、「見える化」しなければ、アイディアの価値そのものを評価してもらえない。ビジネスの現場では、複数のスキルを連動させながら、ものごとを前に進めることが要求される。
本書でいう「7つの力」とは、①論理思考力②水平思考力③視覚化力④数字力⑤言語力⑥知的体力⑦偶発力のことを指す。書店にならぶロジカルシンキングやフレームワークの本は①論理思考力についてのみフォーカスしたものがほとんど。また発想やアイディアを広げる方法について言及したものは②水平思考力について語っている場合が多い。③視覚化力についてはパワーポイントの効果的な使い方やデザイン・レイアウトなど、いわゆる見せ方について解説した本が該当する。④数字力は会計や財務の本が担当し、⑤言語力はコミュニケーション技術、話し方、聞き方、質問術、文章術などが該当するだろう。⑥知的体力⑦偶発力については多くに自己啓発書と呼ばれるカテゴリーの本がカバーしている。
たとえば、可能性を広げる方法としての水平思考と、広げた可能性を何らかの軸によってまとめ上げる垂直思考の両面をカバーし3次元空間を連想させる立体思考として網羅的に解説する本は、やはり、ありそうで無かったと思う。
自分のビジネスで接する人たちを眺めるに、どうも人というのはアイディアを拡散させるのが得意な人と、ルールの中に整理整頓するのが思考パターンとして出来上がっている人と、大きく2種類に分類できる。アイディアを広げるのが得意な人から見ると、最初から整理整頓したがる人は、はなはだ保守的に見える。逆にルールの中にきちんとまとめたい傾向のある人から見ると、アイディアを広げてしまう人は、なんとも無責任に仕事を増やす非現実主義者に映る。いうまでも無いことだが、拡散思考と収束思考は、段階に応じて自由に使い分けることができれば、仕事の出来る人として評価される。余談だが本書を読んで以来、わたしは出会う人を、水平思考タイプか垂直思考タイプかに分類することがクセになった。相手の思考パターンの得意・不得意を理解できれば、サポートする角度もはっきりするし、無理な依頼を突きつけ苦しめることもない。アドバイスもしやすい。
<その2に続く>
2009-04-30 22:07:08|
学び
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- 図解 フィンランド・メソッド入門

『図解 フィンランド・メソッド入門』
北川 達夫 (著)フィンランドメソッド普及会 (著) 経済界 (2005/10)
http://www.amazon.co.jp/dp/4766783476/
世界の経済先進国30カ国が参加するOECD(経済協力開発機構、Organization for Economic Co-operation and Development)が3年ごとに実施する学習到達度調査がある。PISA(Program of International Student Assessment)と呼ばれ、基礎学力を実生活でどれほど応用できているかを調査するテストだ。義務教育を終了する15歳、約40万人の生徒に対して実施するもので、読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシーの3分野が問われる。これまで2000年、2003年、2006年と3度実施され、日本でも集計結果が発表になるとテレビや新聞で大きな話題にのぼる。
日本はPISAランキング上位国。とくに数学的リテラシーは2000年実施で第1位、科学的リテラシーは2000年、2003年実施でいずれも第2位と目を見張るモノがある。これまで多くの基礎物理学のノーベル賞受賞者を出してきたこともうなずけるところがある。ところが、読解力すなわち国語力は、あまり自慢できる状況にはない。2000年第8位、2003年14位、2006年15位。うーむ。世界に名だたる日本文学を誇る国なのに~。
このPISAランキングで過去3回とも総合1位となったのが北欧のフィンランド共和国。その教育方針は“フィンランド・メソッド”と呼ばれ、とくに読解力に直結する国語の教育がたいへん興味深い。フィンランド・メソッドによる国語教育を、ひと言でいえば考える力とコミュニケーション力をつける教育法といえる。
フィンランドは人口わずか500万人余り、国土の大半は森林と氷河に削り出された湖に覆われ、目立った資源を持たない。こうした国であるがゆえ、政策として教育と福祉に資源を集中している。つまり箱物や道路の拡張よりも、国民という人的資源に投資する政策をとっているのだろう。
本書はフィンランドの小学校の国語で実施されている授業のやり方を体系的にまとめ、5段階のフィンランド・メソッドとして日本に紹介する目的から執筆された。小学生用と侮ることはできない。なにしろ日本の教育では学ぶことのなかった知的な好奇心を刺激する内容がたくさん含まれており、日本の社会人こそ学び実践すべしといっていい。
グローバル・コミュニケーション力を養成することを出口とし、フィンランド・メソッドとして体系化した本書は以下の5段階で構成される。
■1■発想力の養成
カルタを使って発想を広げる方法。カルタに書かれたテーマから関連するキーワードを連想してカルタを付け加えることで発想を広げる方法。私が個人的に愛用するマインドマップに近い。たとえば自己紹介するなら中心カルタに「私」を置き、その周辺に「趣味」「性格」「見た目」「名前」「家族」などのカルタを書いていく。連想ゲームなので深く考えることなく直感的にカルタが増え、自己紹介する角度が増えていく。
■2■論理力の養成
「どうして?」「なぜ?」を繰り返し問うて意見を深める。
「ぼくはネコが好き」
「どうして?」
「カワイイから」
「どんなところがカワイイの?」
「えーと、毛が柔らかいところかな」
「どうして毛が柔らかいとカワイイの?」
日本の職場で同じように「なぜ?」「どうして?」を繰り返したら、相手は腹を立てるかも。詰問されているように感じてしまうからだが、日本ではこうした意見を深める教育を受けていないことが要因だろう。しかし「なぜ?」に答えることは原因と結果という要素をそろえていくこと。「なんとなく、好きじゃない~」といった情緒的な意思表明は排除される。
■3■表現力の養成
先生がホワイトボードに書いたキーワード、「図書館」「本」「物語」「おもしろい」「たいくつな」「疑う」「眠る」「借りる」「返す」。
設問:9つのキーワードを全部使ってできるだけ短い作文をつくりましょう。
これは言葉を自在に使いこなす思考法の訓練。これは結構楽しい作文授業かも。
表現力養成をもうひとつ。フォーマットにしたがって作文をかきましょうという授業。この授業は是非とも日本の小学校・中学校・高校でも導入して欲しい授業だと思う。
第1段落「あなたは誰ですか? 説明しましょう。」
第2段落「あなたはどういう人ですか? 順番に説明しましょう」
「まず、自分の見た目について説明してください」
「あなたはどういう性格ですか」
「あなたの家族について教えてください」
↓
第3段落「最後に、あなたの将来の夢について説明しましょう」
文章を書くのがどうも苦手な人にはこのフォーマットといいましょうか、小論文の型を知るという練習を是非おすすめしたいところだ。
■4■批判的思考力の養成
クリティカルシンキングの基礎。たとえば「いいところとわるいところを十個ずつあげてみましょう」。または「本当にそうかな?」の発想を身につけるといった方法では、自分にとって当然のことが、相手にもわかるかな? といった立場を変えて考えてみるといった発想法も学ぶ。批判的思考とは相手の立場でモノを見る視点を育てるものだ。
■5■コミュニケーション力の養成
ルールを設けたグループ・ディスカッション。これは日本文化にないミーティングルール。ディスカッションに対する価値感がやや低い。企業の会議の前に参加者全員に配ってあげたいような内容だ。以下ルールの一例。
1、 他人の発言をさえぎらない。
2、 話すときはだらだらしゃべらない。
3、 話すときは怒ったり泣いたりしない。
4、 どのような意見であっても間違いと決めつけない。 などなど。
小学校3、4年生でこうした授業を受けているのかと思うと、私はフィンランドの子どもたちがなかなかどうしてうらやましくなってくる。
ところでPISAの2006年実施において日本はショッキングな事実を見ることとなる。読解力は相変わらず中クラスの15位と良くも悪くも変動はないのだが、数学力が前回6位から10位へ、科学力が前回2位から6位へと大きく後退した。もちろんOECDならびにPISAへの参加国が次第に増えてきたという状況があったとしても、知的パワーの相対価値が低下していることは疑うべくも無い事実。資源をもたない日本をして経済大国と呼ばれるまでの生産力を身につけせしめたモノは、武士道の流れを組む勤勉さだったことはいうまでもない。なにもフィンランドに負けるなとか、常に一等賞でなきゃ承知せんというつもりはないが、日本の国力を支えてきた教育水準の高さが相対価値を下げていることに一抹の不安を感じるのは私だけでないと思うのだ。なにしろ相変わらず日本は資源をもたないにもかかわらず、物価の高いにもかかわらず大量消費する水ぶくれ社会になってしまっているのだ。智恵の力なしに世界の中でプレゼンスを保ち続けることができるのだろうか?
一方、PISAランキングの低下は日本の教育行政に大きな影響をあたえることにもなる。
「ゆとり教育」は教育行政の失敗という烙印が押さされ、教育再生の名の下、2011年からをメドに10%程度授業時間を増やす新しい教育指導要領が公布された。「総合的学習の時間」をわずかながら残しながらも、元の知識詰め込み式教育への揺り戻しともいえる状況。もともと日本は知識詰め込み式の教育がオチこぼれを作り教育格差を生みだしたことや、知識習得に追われて心のゆとりを無くした子どもたちがいじめや登校拒否を生みだしたことが社会問題化しているとの答申にしたがって、社会体験性を重視することを主眼に1989年から実施されたのが「ゆとり教育」のはずだった。私は個人的に「だから日本の教育行政はダメなんだ!!!」などと単純批判をするつもりはないのだが、授業時間を元に戻してもこれからの日本を背負う若者たちに力を与えるための方針転換になるとはどうも思えない。
良くも悪くも子どもたちは教育課程を通じて大人になり、やがて社会参加することとなる。社会参加する多くの若者は企業や役所などの組織にはいりビジネスにたずさわることとなる。今後のビジネスは好む、好まざるとにかかわらず、グローバル化をさけることができない。ビジネスの多くは日本国内マーケットで完結せず、アジアや世界をマーケットとして考えていくことになる。背景の異なる様々な国の人々とわかり合うグローバル・コミュニケーション力が、どうしても必要とされるのだ。こうしたマーケット規模の拡散が当たり前になることを前提としたとき、どんな若者にビジネスの世界に入って来て欲しいか? もし、問われたとしたら、確信をもって答えたい。自分で考え自分の意見を説明できる若者を職場にむかえたいと。
実はフィンランドの授業は日本のゆとり教育より授業時間は少ない。しかも総合的学習の時間は日本よりも多い。なにもフィンランド・メソッドが世界最高の教育哲学で日本の教育はまるでだめと言っているのではない。ただ、教育指導要領といった運用ルールも大事だが、教育のベースにあるのはどんな人材をこの国から育てたいのかという国家哲学だと思わずにいられない。
ひょっとして第二次大戦後から今日までの日本の教育思想は、自分で考え自分で答えを出す人材より、組織の中でうまく調和できる、いってみればお上の扱いやすい人材育成に重きを置いてきたということはないだろうか? 経済成長が続くことが前提ならこうした人材のほうが社会ニーズは高かったのだろうが、今や世界の中の日本で求められているのは価値創造というフェーズとなったことは言うまでもない。
新しい価値を創造する力を支えるモノは何か?
自分で考え、自分の意見をまとめ、人にわかるように伝えることのできるスキルに他ならない。たとえお上の扱いにくさが伴ったとしてもだ。
2009-03-04 06:46:31|
コミュニケーション
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- レバレッジ・マネジメント―少ない労力で大きな成果をあげる経営戦略』

経営者にとっての「学び」とは自己投資。勉強すべきことは実に多く、増える一方。際限がないといっても差し支えないかも知れない。
本書の冒頭に有名な『論語』からの引用がある。
「子曰く、学んで思わざれば則ち罔<くら>し。思うて学ばざれば則ち殆<あやう>し」
経営者にとって学んで考えることはメインジョブかもしれない。なにしろ最終意志決定者なのだから。
もう一つ、本書に掲載された引用。
「働くな、利益をあげろ」
会社経営の本質といっていいだろう。経営とは商売を通して利益をあげつつ社会と関わることが目的だ。お客の欲求に応えたり、問題を解決するしたことの対価として利益を受け取る行為がビジネスであるなら、そのビジネスがうまく回っているかをチェックし、よりうまくい方向に舵取りする行為こそマネジメントだ。したがって、一生懸命に働いているのに利益が上がらないという会社があるとすれば、それは舵取りのやり方に問題があるのか、それとも稼ぐ仕組みとしてのビジネスモデルに重大なズレが生じているということになる。できる限り早期に軌道修正が必要だということだろう。
なにかよく見えないけれどズレを感じている経営者、事業部長、執行役員など、年間予算と部下を預かる立場で、日々、悪戦苦闘しているビジネスパーソンに本書はおすすめ。とくに「忙しくって本を読む時間などない」と答えるビジネスパーソンには、声を大にしておすすめしたい。これは、著者・本田さんが本書以外でも何度も指摘していることだが、本を読んで成功者のノウハウを学ばないから、遠回りして時間がかかり効率の良くない仕事をしてしまうのだ、ということ。あるいは、「自分は仕事ができる人間」などとどうも勘違いしている方が近所にいれば、知らんぷりしてその自信家のデスクの上に本書を置いてあげればいいかも。
もっとも自信過剰の状態にある人は本など読もうともしないか、または読んだとしても重要なことに気づけないかもしれないけどねぇ・・・。
さて、本書では最小の労力で最大効率を生み出す思考法や行動規範を「レバレッジ」というキーワードを柱に、経営者はいかにマネジメントすることがおすすめなのかが語られた1冊だ。
「経営者としてのスタンス」「戦略の考え方」「営業」「ブランド」「仕組み化」「組織」の6つをメインテーマとし、いかにマネジメントにレバレッジをかけるのか? 各トピックについて簡潔にわかりやすく書かれている。全編をとおして読まなくとも、気にかかるトピックだけでも読める構成なので、時々、思い出して拾い読みするのもいいかもしれない。あるいは経営者としてのチェックリストのように活用もできそうだ。事実、本書の巻末には「レバレッジ・マネジメント チェックリスト」とおすすめブックリストも収録されている。とても親切な本だ。
本書で指摘されていることは知識としては知っていることが多いかもしれない。しかし、なぜかできていない方のほうが多い。あるいは忘れていることも多い。本当に大切なことはものすごく基本的な考え方だったりするので、知ってるつもりになっちゃうんだよね。
経営者としてどんなことをするべきかよりも先に、まずやらないことを決めるという劣後優位。メンタルとフィジカルの両面のトレーニングが適切な意志決定につながること。オリジナリティにこだわりすぎて発明ばかり続けていないか? ゴールへの到達からの逆算思考ではなく、目標までの道のりを作りながら働く順行思考をとっていないか? 社員が苦労しなくとも営業できるように仕組み化できているか? などなど。語学と同様に知っていることと、実行できていることはフェイズが違うのだと改めて思い知らされる。
トップマネジメントには、ぼけっとしている時間などない。つねに学びトレーニングし、実行しなければならない。とくに知識や知恵に高い価値がつく知識社会においては、昨日までダントツに成功しているビジネスモデルを持っていたとしても安心などできない。進化することをストップした途端、より高次元の知的代替サービスがとってかわるでしょう? 現代の経営者とは、かくも厳しく自らを律する必要があるのかと改めて思い知らされる本でもある。もちろんだからこそやりがいもあるということなんだろうけど。
経営者や事業主は「●●が原因でできませんでした」というエクスキューズはできない。してはいけない。よほどお金の有り余っている会社でない限り、「できなかった」は企業経営の終焉に直結する。だから当然、新しい事業を起こすときには調べて考えぬく仕事をサボらないことが前提となる。また、新しくチャレンジしたことが思惑を外した場合の撤収ポイントを見極める必要がある。もし、見通しがはずれ失敗した後、できなかった理由を、「参入が早すぎた」「遅すぎた」「あいつが指示通りに動かなかった」などなど、いい訳として口にしたり、ダメだった場合のエクスキューズを考えながら事業をやっている経営者がいるとしたら、それはマネジメントとしての危険シグナルといっていい。
経営者になるということは、けっして楽ではない環境に身を置くことともいえる。ここに従業員との決定的な違いがあるといっていい。背負ったモノの大きさが違うのだ。しかし一方、経営者でなければ見ることのできない世界や風景、人との出会い、より多い収入といった素晴らしい側面もたくさんあるだろう。だから経営者を目指すビジネスパーソンがいなくなることは無い。
究極の選択が考えられる。
1、 いい訳できる余地があるローリスクで安全な立場だが、ほどほどの収入と立場にとどまる生き方。
2、 周囲の人より負担やリスクが大きいのだが、高い収入とより大きなダイナミズムに接する生き方。
どっちが人として偉いわけではない。まして、どちらを選択するのか他人にあれこれ指示される筋の話しでもない。自由に自分で決めて行動することだ。
2009-02-28 18:57:25|
商売
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- 十二番目の天使

『十二番目の天使』
オグ・マンディーノ (著) /求龍堂 (2001/04)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/476300106X/
若くして大手コンピュータ会社の社長にまでのぼりつめた主人公ジョン・ハーディング。成功者として故郷に錦を飾り、小さな町では英雄のように扱われるのだが、絶頂の幸せは砂上の楼閣のように失われる。故郷に戻ってわずか2週間後、最愛の妻と息子を不慮の交通事故で 亡くしてしまうのだ。
もはやビジネスで成功した地位も名誉も破格の収入も、何の意味もなさない。生きる希望もなくし、自室にこもるジョン。デスクの中に隠してある 護身用の拳銃に手が伸びる・・・。絶望のどん底に突き落とされ、人生の目的を失ったジョンは、親友ビルの訪問によって救われることに。ビルが訪ねてきた用件は、「リトルリーグ・チームの監督を引き受けてくれないか? 」。
12人の天使のような子どもたちが集う我がチーム・エンジェルズ。そんな中にひときわ体が小さくて、フラフラと運動能力も心もとない12番目の選手ティモシー少年がいる。試合ではバットにボールがかすりもしないし、ティモシーの守備位置にボールが飛ぶたびに、監督のジョンやコーチのビルはヒヤヒヤ。普通に考えれば、チームのお荷物選手なのだ。
でも、なぜかこのティモシーはけっしてめげることがない。あきらめることがない。途中で投げ出したり、絶望したり、ヤケになったりとはまったく無縁。どんな逆境に見舞われても、前向きに野球に取り組むティモシーに接した時、監督ジョンはもちろん、ミスばかりのティモシーを最初は笑っていたチームメイトの少年たちも、やがて、ティモシーのことを心から応援せずにはいられないような、祈るような気持ちに変わってくる。
「なんとかして、シーズン終了までにはティモシーにヒットを打たせてやりたい!」
しかし、ティモシーには決して誰にも話さないと心に誓った秘密があった・・・。
ミステリー小説のような意外なプロット作りがされているわけでもなく、読み進む途中で、お話しの展開が何となく予感できるところもあるのだが、なぜかクライマックスに到達すると、涙なしにはとても読めない物語。
おそらく愛情、絶望、友情、勝利といったベーシックに人の心を刺激する要素がこのストーリーに埋め込まれているのだろう。「琴線に触れる」とは、こうした感覚かもしれない。それに最近ではハリウッドシナリオ・テンプレートなどと呼ばれるツールもあるそうな。ギリシャ神話や民間伝承など、人の心に染みるストーリーには一定のパターンがあるようだ。
毎日のビジネスに追われて、なにか大切なことを忘れかかっている方がもしいれば悪くない1冊かもよ。
2009-01-15 15:17:39|
学び
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- カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

『カラマーゾフの兄弟』(1)~(4)+エピローグと解題
『カラマーゾフの兄弟』の余熱が未だに残っているようだ。というのも、現代日本が抱える混乱や不安の本質と、ほのかな未来への希望のヒントがこの作品に書かれている気がしているからだ。
実は昨日、偶然、本書出版元の光文社のサイトにいきあたった。すでに累計100万部を突破しているそうだ。5巻シリーズのトータルとはいえ、なぜ、今になって130年前に書かれた海外の古典文学が、21世紀初頭の日本でミリオンセラーを記録しているのか? 新訳の素晴らしさだけで、こうした現象は起こらないだろうと私は思う。この問いに対して、もう少し直接的にアプローチしてみたい。
文学的な素養は持ちあわせていないので、歴史認識にマーケティングのプロファイリングの視点を加え、『カラマーゾフの兄弟』の登場人物の構図と当時のロシアの状況を、21世紀初頭の現代日本に、アナロジーとしてあてはめてみた。
(A)国際社会の中で衰退期に向かう帝政ロシアの廃退風土=フョードル=成長期が終了し成熟期から衰退期に向かう日本
(B)帝政末期のロシア社会に不満を募らせる若者たちの気分=ミーチャ=漠然とした経済不安・将来不安を感じる現代日本の空気
(C)共和制と産業革命合理化主義を持ち込む革新思想=イワン=革新技術で世の中の流れを変えたいベンチャースピリット
(D)キリスト教哲学に基づく理想的な人道主義=アリョーシャ=想像もつかない理想郷としての新しい日本社会
無理繰りの部分もあるのだが、帝政ロシア末期と現代日本では、時代の空気に共通項があるように思えてならない。また、1853年の浦賀沖への黒船来航を契機に本格化し、尊皇攘夷か開国佐幕か、世論が真っ二つに割れて、陰謀と暗殺が吹き荒れた幕末の日本とも似ている。
『カラマーゾフの兄弟』では(A)(B)(C)間の闘争が「父親殺し」に象徴され、結果、それぞれが自己崩壊する。つまり「打倒する」「闘争する」「取って代わる」という人間の根源的な欲求をまな板に載せたとき、ドストエフスキーは被害者にも加害者にも再生を与えなかったということ。ドストエフスキーが理想郷としてアリョーシャの人格に託した(D)は、こうした闘争のポジショから距離を置いた人道主義とも、統合する立場ともいうべきものだ。
当然、アリョーシャの立場は観念またはコンセプトの世界観であり、その後のロシアもドストエフスキーの理想とは異なる歴史をたどったことは改めて言うまでもない。むしろ都合よく解釈された面すらあった。
当然、物語に描いた理想がそのまま実現するなどと、ドストエフスキー自身も考えていなかったと思う。だがあえて観念的なまでの理想社会を後世に残したのではないのか? 自分の父親を暴力で奪い去ったロシア社会。その時、無垢なドストエフスキー少年は、自らはからずも、意外なことに安堵感をいだく。やがて少年は成長して気づく。自分の中にあった悪魔のような心と、その延長線上にあるすさんだロシア社会が自分の父親を死に至らしめたこと、「父親殺し」をおこなったことに・・・。
ドストエフスキーは父親の死に際して感じた安堵感について、生涯にわたり罪悪感を持ち続ける。そして本書の執筆当時、テロリズムの吹き荒れる絶望的な世相に接した時、あえて理想の旗を掲げたのではないのか? 未来の理想ロシアの芽を描いて読者に提示することを、作家ドストエフスキーの最後の使命と感じていたとしか思えない。
エピローグの最後に迎える不自然なまでの大団円。「カラマーゾフ、万歳!」という「私の主人公アリョーシャ」を囲んだ少年たちの声が響き渡るシーン。ここまで緻密に組みあげた傑作にもかかわらず、何でまた、こんな予定調和のようなラストシーンなんだ? と読後しばらくは理解できなかった。だが、今になってようやく気づかされる。暗黒のようなすさんだ世相に対する、理想の新しいロシア宣言だったのではないのか? 仁愛と希望、そして様々な人たちを大きく統合できる人格をもった、人間性のシンボルのようなアリョーシャを新たなロシアの父親とし、理想国家ロシアの建設という希望を少年たちの未来に託した「新ロシア宣言」ということではないのか?
そして、大作『カラマーゾフの兄弟』の執筆が著者の手を離れて、わずか80日後、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは、突然、この世を去る。享年60歳。残りわずかな命のすべてを燃やし尽くし、その命と引き替えに畢生の大作『カラマーゾフの兄弟』を後世の若者たちに残したといっていい。希望を託したのだ。
作品自体がもつメッセージ力、作品のメッセージが必要とされる社会意識、作品を受け入れる十分な見込み読者数、購買を意識できる適切なタイミング、見込み読者に届く適切なマーケティング・コミュニケーション、作品の描き出している世界観に対する読者の共感など、様々な条件がかけ算式に組み合わされた結果、発生する社会現象がミリオンセラーというもの。
普及の名作と呼ばれ、今回の亀山先生の新訳もすばらしかったと感じているのだが、『カラマーゾフの兄弟』がミリオンセラーとなるには、ミリオンセラーとなるべき要素が複数重なっていると思わずにいられない。つまり、『カラマーゾフの兄弟』の舞台となった帝政ロシア末期と漠然とした社会不安がただよう現代日本には、国の政治や経済対策、または企業の動向も含め、いったい何が正しくて何を信用していいのか? よくわからないという社会不安が共通項として浮かび上がってくる。つまり本書が発表され多くの読者をとらえた19世紀末末と同様に、本書『カラマーゾフの兄弟』を受け容れるマーケット環境がそろっているということ。その環境に現代風に詠みやすさを工夫し解説も充実した新刊として新訳『カラマーゾフの兄弟』が発売された次第ではないのだろうか。
本書のエンディングは混乱した帝政ロシア末期と現代日本に対して、ひとつの希望を語ってくれているように思える。子どもたちに新しい理想国家建設の夢を託すということ。
補正予算を組んで減税し、商品券を配るのも緊急対策として必要かもしれないが、いかんせん短期施策。グローバルマネー資本主義が破綻し、新しい世界秩序が求められつつある時、中長期的に日本国のとるべき施策とは教育しかあり得ないと私は思う。いうまでもなく教育施策とは子どもたちや若者たちに新しい理想国家建設の夢を託すという施策に他ならない。
2009-01-09 23:19:18|
文学
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- CD付 英語は耳読書で学べ

『英語は耳読書で学べ 』
金井 さやか (著) /中経出版 (2008/12)
http://www.amazon.co.jp/dp/4806132330/
「耳読書」とは英語のリスニング教材を聞くこととは少し違う。小説やビジネス書などの英語朗読やセミナー講義などのオーディオブックを、本を読むように内容を知ることを目的に音声で聴く行為のことを指す。
いわゆる英語リスニング学習との概念的な違いは以下の2点だろう。
◆1◆英語で聞く素材と内容は自分の興味の持てるものを自分で決める
英語をつかってビジネスしている人たちが口をそろえるポイント。要は興味の持てるネタで勉強した方が続くよ、ということ。自分で決めて自分で探すというところが重要。
◆2◆英語を身につけた先にある目的にフォーカスしている
もともと英語を身につけたかった理由があるはず。外国人のボーイフレンドがほしいとか、海外赴任できるとか、あるいは収入が増えるとか。「英語ができるようになった○○したい!」という本来の目的を思い出せば、当然、素材も絞られてくるというもの。ようは「英語ができるようになったら○○する」の「○○する」を英語で始めればいいということ。ボーイフレンドが欲しかったのならコミュニケーションスキルを説くオーディオでもいいだろうし、ビジネスなら会計でも、マーケティングでも、iTunesやauduble.comなどにいけば、豊富にそろっている。仮に英語を使うプロフェッショナルの翻訳者や通訳者が目標であっても、どの分野の通訳をやりたいのかどういった分野の翻訳をやりたいのかで、自ずと英語素材は変わっていいわけ。なかには英語音声の美しさに惹かれて英語をやってんだ、といった方もおられるかもしれないが、まぁ、常識的に考えて少数でしょう。
自分も含めて多くの学習者は、目に見えるメリットがあって英語を勉強しはじめたのだと思う。
「耳読書」はどこまで英語を聞き取れるようになったかということより、自ら進んで何を英語で聞くのかということを重視する。内容を知りたいと思える英語なら、無理に強いるような聞き方をしなくとも、自然に英語を聞き取ろうとする心の準備ができるので、楽しく耳読書できるということが重要なポイントだろう。
わたしゃ個人的にこの考え方に賛成だ。
自分が学習する内容は自分で選んだが故、学習そのものにコミットできる。コミットとは運命共同体となるほどのニュアンスだから、「わかっちゃいるけど続かない」などという自分に対するエクスキューズも排除できるってこと。このあたりがなんとも重要だと思うのだ。
きれいに編集された英語教材は、もちろん学習者にとってありがたい存在だ。わたしもずいぶん助けられた。今でも利用する。しかし、どうしても興味の持てないトピックが教材にまじってくる。不特定多数の英語学習者を対象に作られているのだから、仕方がないのだが、興味の持てないテーマはどうしたって興味は持てない。ひたすら苦痛でしかない。
苦痛なモノは避けるか、逃げるか、いい加減になるのが人情でしょ。
もちろんまったく、まったく英語の聞き取りがゼロに近い段階には、むしろアルクさんの英語教材のように、プロの目利きによって効率よく聞き取りのコツが学べるように工夫されたパッケージを利用した方がいいと思う。こうした段階には、英語文法や英語構文を覚えるよりも、勉強する習慣付けであり、どう学ぶかを学ぶことのほうが重要であることは、ほぼ間違いない。これは何も外国語学習に限ったことではなく、習い事全般に言えることだ。
ただ、ある程度、英語学習に対する意識が自分の中に出来上がったのなら、学習時間の何パーセントかは、本書で言う「耳読書」に当てたらどうだろ。英語の勉強自体が楽しめると思う。もちろん自分勝手な我流に陥らないよう、英会話スクールや英語教材も、意図的に混ぜて運用するのがいいかもしれない。
本書にある言葉だが、ちょっとドキッとする。
“A confused mind always says no.”(人は迷うと必ずノーと言う)
どんなに確信をもってはじめたことでも、どんなにすばらしい先生についたとしても、あるいはピッカピカの教材であったとしても、慣れてきてコツをつかむと、いろいろなことに気が散ってくる。迷いがうまれてくるのが人というもの。悲しいね。同時に本来の目的を見失うこともある。
何を達成したいがために英語を身につけたいと思っていたか?
クールに客観的に、自分を見つめ直すためにも、自分の聴きたい分野の英語を探すというのも悪くないかもね。
2009-01-08 23:22:35|
英語学習法
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- カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟』(1)~(4)+5巻目としてエピローグと訳者解題
ドストエフスキー (著)、亀山 郁夫 (翻訳) /光文社 (2006/9)
社会が混乱し、従来の価値観に疑いが募った時でないと、根源的で本気の質問は発せられないのかもしれない。
世界の文学史に輝く金字塔の一つとされる本作品は、19世紀後半、帝政ロシア末期という世相を背景に世の中に送り出された。
歴史にその名を残す文豪を捕まえていうセリフでもないのだが、よくもまあこんな大がかりな構造で、しかも登場人物の位置づけや人間性、各エピソードの全体における位置づけなどが綿密に絡み合う緻密な物語世界を描けたものだと、ほとほと感心してしまう。これまで読んだ小説の中で最も重厚な作品だったことは間違いない。しかも長い。文庫本4巻+エピローグで2,200ページを超える分量の超大作だ。それでも読み始めてからは長さはほとんど感じないまま一気に読み切れる。それだけ原作と翻訳に力があるといっていいだろう。
当時の帝政ロシアそのままの粗放さで感情的で破滅的な言動を繰り返す長男ドミートリー、愛称ミーチャ。民主革命と産業革命を経験した先進ヨーロッパ諸国の知識を持ちあわせ、著者ドストエフスキーの表側半分を表す知性派の次男・イワン。ロシア正教の教会修行僧として心を育み、統合・調和・仁愛を象徴するかのような心優しき三男・アレクセイ、愛称アリョーシャ。著者ドストエフスキーの人間性の暗部を表現する使用人スメルジャコフ。
ドストエフスキーの自伝的なもの、当時のロシアが抱える社会問題、理想像としての未来のロシア社会といった各ポジションに、カラマーゾフの兄弟たちの人間性が配分されているようだ。
登場人物たちは作品の中で、のたうち回るような苦しみをそれぞれ味わうことになる。そして、気づかなかった自分の心の暗部を見つめることになる。表現の工夫としては、ひとりの登場人物を本名と愛称でまぜこぜに描写している。当然、著者が意図的にそうした表現をしているわけだが、主体と客体、表と裏、ホンネとタテマエ、内側と外側といった意識区分が用いられているように読める。読み進んでいる最中は気づけないのだが、たとえば主人公アリョーシャのいいなづけだった愛称リーズの呼び名が、あるシーンを境目として、リーザとの呼称になったりする。一人のキャラクターの表側からの視点が裏側からの目線に変わったような効果を生み出しているようだ。
本作品ストーリーの骨格をなすテーマが「父親殺し」とは何を象徴しているのか?
どうしても当時のロシアの世相とオーバーラップしてくる。3兄弟もしくはスメルジャコフを加えた4人の息子にとって、殺された父親フョードルはこれ以上ありえ無いだろうと思える最低・最悪の父親として描き出される。被疑者である長男ミーチャの弁護人の最終弁論の中で言及されたように、幼い子どもの面倒も見ずほったらかし、本来、息子ミーチャに相続されるはずの資産をせしめ、あげくのはてはその息子が愛する女性を奪おうとさえしている。こんなとんでもない人間を、血のつながりがあるというだけで、愛することができるのか?
食べることにも事欠く自国の民をほったらかし、本来、農民が相続すべき資産を専制政治の名の下に召し上げ、国民のささやかな幸せをも省みようともしない我が父親の如き帝政ロシア。こんなとんでもない国家・帝政ロシアを愛する必要があるんだろうか? こんなふうに読み変えることができそうだ。現にその後、ロシア社会に登場した急進的な共産主義革命運動家の中には、本作品を革命思想作品と読んだ者達もいた。
著者ドストエフスキーの体験した、帝政ロシアに対する反逆罪によるシベリア流刑、てんかん症状の苦しみ、実の父親が農奴から殺されるという少年期の体験、父の死に際して思いがけず感じた安堵感とその感情に対する消し去れない罪悪感。著者の実体験を盛り込んだ自伝的要素と世相を語るストーリーとしての「父親殺し」というトピックに、混迷した社会の最後の救いとなるだろうキリスト教哲学の解釈におよぶ心の問題が重層構造をなして大きな物語が描かれる。
父殺しの真犯人はいったいだれなのか?
著者ドストエフスキーの暗部を演じるスメルジャコフか?
無意識にスメルジャコフに対して殺人教唆を実行した著者の表面を演じる次男イワンか?
非道な父親に対する殺意を吹聴しており、殺害現場の状況証拠において逃れようもない長男ミーチャが犯人なのか?
いずれのキャラクターにも動機があり、その非道な動機に気づいてしまうが故、それぞれの立場で「父親殺し」の罪の意識から自らを破壊する。
そして統合・調和・仁愛の象徴のように描かれるアリョーシャも、「父殺し」の意識からまったく無縁だったワケでもない。
読後まもなくは、なんて救いのない物語なのだろうと感じたのだが、しばらく時間を置いてみるとまた違った考えがかんでくる。気の毒なカラマーゾフの兄弟達は「父親殺し」という運命の渦の中にまきこまれ、自己破壊に及ぶ。彼等をとりまくグルーシェニカ、カーチャといった美人キャラクターも自己破壊に近い状況に立ち至る。言うまでもない当然のことなのだが、著者はどうしようもない父親なら殺されてもいいなどと書いているのではない。知らず、知らずのうちに、どうしようもない運命の渦によって父親殺しに立ち至らざるをえなかった不幸とその末路の不幸を語っているのだろうと思われる。したがって父親殺しに意識を荷担したカラマーゾフの兄弟たちは自己破壊に至らなければならない。言い換えれば帝政ロシアを象徴するミーチャも、最新ヨーロッパ思想にそまったイワンも、イワンの代行者としてのスメルジャコフも、父親殺しから逃れることができない不幸を暗示しているといえる。
つまり父親殺しとはダメになった思想なり社会制度を壊し入れ替わる、差し替える行為の象徴として読めてくる。しかし古いものを力でねじ伏せても、ねじ伏せた者が不幸になる。
唯一の救いとして神の教えにしたがい、統合・調和・仁愛の言動で生きるアリョーシャにのみに、再生が与えられたということなのではないか? つまり社会制度によって、民衆としての兄弟たちを父殺しから逃し救うことはできない。唯一の可能性は神の教えに従うことを書きたかったのかもしれない。そうした意味で本書は宗教小説と呼ばれたる側面がある。
本書発表当時19世紀後半の帝政ロシアは、民主革命と産業革命を経験したイギリス・フランスと戦い、その国力の差をみせつけられ戦果なき戦いのクリミア戦争を経て、周辺ヨーロッパ国からの啓蒙主義の圧力により1861年には農奴解放を実施したものの、相変わらずの不安定な経済状況により民衆の不満が鬱積する状況にあった。繰り返しになるが、こうした国家システムの凋落を背景に本作品は世に送り出された。絶対君主制ツァーリズムの弾圧と近隣ヨーロッパ諸国から流れてくる人民主義が真っ向からぶつかり、テロの吹き荒れる陰惨な状況にあったのが帝政ロシアの末期なのだ。尊皇攘夷なのか佐幕開国なのか、どっちが正しい判断なのか当事者たちにすらまったくわからなかった、日本の幕末に似ている。
ドストエフスキーの構想では、『カラマーゾフの兄弟』の13年後の物語が書かれるはずだった。続編ではアリョーシャが第4部の冒頭で相当なページをさいて描写された少年たちとともに、革命運動に参加し、アリョーシャ自身が新たな「父親殺し」事件を引きおこすとの文学研究もある。第4部の冒頭「少年たち」の章に登場する、こまっしゃくれた自称・社会主義者の14歳のコーリャ・クラソートキンに対して神の子アリョーシャが語るセリフは象徴的だ。
「でもいいですか、コーリャ、きみは将来、とても不幸な人になります」「でも、全体としては、やっぱり、人生を祝福してくださいね」
神の子アリョーシャは新思想をもったコーリャに「父親殺し」の萌芽を見てとった。作品の冒頭でゾシマ長老が長男ドミートリーに対して予言したことと見事に重なるのは訳者解説にもある。混迷期を脱するための道としてアリョーシャに託した人格、すなわちキリスト教の教えを守る思想以外に、父親殺しという運命の渦から逃れる事のできないのではないのかという著者の結論を暗示しているようにも読める。しかしいずれにしても「・・たら」「~れば」の話しだ。ドストエフスキーの頭のなかで続編の結末が出来上がっていたかどうかも実際の所は不明なのだ。
『カラマーゾフの兄弟』の原稿が著者の手を離れてからわずか2カ月後、ドストエフスキーはこの世を去った。享年60歳。旺盛な著作人生であり、『罪と罰』『白痴』『悪霊』など、その他にも多くの名作を残したが、著作人生の最後に最高傑作を書き終え、人生を全うした幸せな作家ともいえる。
世界文学の偉大な業績の一つに数えられる『カラマーゾフの兄弟』の完結と著者ドストエフスキーの死を見届けたかのように、その後、帝政ロシアは崩壊へのプロセスを歩み出すことになる。
1881年1月 フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー逝去
1881年3月 皇帝アレクサンドル2世暗殺事件
1904~1905年 日露戦争(敗戦に等しい講和)
1905年 地の日曜日事件
1914年 第一次世界大戦参戦(敗戦に等しい講和)
1917年 ロシア革命(二月革命)ロマノフ朝退位ロシア帝国崩壊、ロシア共和国成立
1922年 ソビエト社会主義共和国連邦の成立
社会が動乱や変革に包まれると、民衆は人の生きる意味や価値観を改めて問い直すことになる。また、新しい世の中を望む気分が醸成される。誤解を恐れずにいえば、混迷する世の中の空気がなければ生まれなかった作品なのかもしれない。人の生きる意味に対する問いだったと言い換えてもいい。
この新訳『カラマーゾフの兄弟』はなんと累計70万部とも80万部を超えるともいわれているベストセラーだそうだ。古典作品の翻訳としては聞いたことのない異常事態といっていい。また、昨年2008年にはやはり古典の『蟹工船』が異例のベストセラーとしてラインナップされた。ベストセラー作品とは社会の空気を色濃く映し出した社会現象といわれる。『カラマーゾフの兄弟』が発表された時、ロシア社会が混乱期だからこそ砂に水が染みるように多くの読者に受け容れられたのなら、現代の日本にもなにか新たに価値観を問い直さざるをえない空気があるとしか思えない。経済発展の著しい現代のBRICS諸国で『カラマーゾフの兄弟』がベスセラーになるとはとうてい考えにくい。
2009-01-07 21:56:41|
文学
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