
2009年12月30日(土)
宿泊ホテルは「玉造グランドホテル長生閣」。
賑やかに迎えられて玄関ロビーに入ると、享和3年(1803年) 創業と言われる落着いた気品が漂っている。
案内の方と明日の予定を相談しながら、「松江のカメラ屋さんはどこにありますか」と訊ねると、「今頃カメラ屋さんは街の中になく、郊外にあります。よろしければ今からご案内しましょう」ということで、言葉に甘えてカメラ屋までの送迎を頼んだ。
実はカメラを持ってくることを忘れており、「なくてもいいや」と、半ば開き直ってもいたのだった。
しかし思いがけない親切で、買うことに決心したのだった。
私は、ホテルの親切さに深く感激しながら、若い人の運転する車に身をゆだねる。
「ヤマダ電機松江店」は、松江の先の東出雲町にあったが、高速道路を使って20分とはかからない距離だった。
ここで驚いたのは、店内で対応してくれた若い娘さんの切れの良さだった。
私の質問を素早く正しく理解して、的確な答えを返してくれる。
その見事さは、平素私が近くの電気点ではあまり経験しない、レベルの高さだ。
車に戻って、車を運転してくれている若い人に、早速その話をした。
「田舎の良さなんだなぁ」
と付け加えると、「どうして田舎が良いのでしょうか」との質問が返って来た。
親元から通うことのできる職場が少ないので競争が激しく、優秀な人材が集まり易いのではないだろうか。
一度働き始めると、落着いて仕事に定着するので、年季を積んで上達する環境に恵まれている。
など、慌てて私の考えをまとめ、詰めが弱いのではないかと懸念しながら、答えた。
すると彼からは「良い話で、とても自信が深まり、力になります」と、意外な答えが返ってきた。
今度は私が「何故ですか」と訊く方だった。
「田舎に暮らし働いていると、社会から遅れているのではないかと、心配が絶えないので落着かないのです」
この答えは私にとって、昔にあっただろう感覚が今も息づいていることを知り、大きな勉強になった。
「私たちも腰を落ち着けて、頑張ろうと考えなければと思います」
それから、何故カメラが必要なのかを質問され、ブログを書いていることを話した。
「ブログは思った以上に社会に広く影響を及ぼすので、迂闊に悪口は書けない」
「しかし自分の物の見方や意見をまとめる機会となる」
会話が弾んで、ホテルまでの帰りは短く感じ、直ぐ着いた。
思いがけなく楽しい、カメラ買い出し行だった。
2010-01-03 05:11:33|
お仕事
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1976年7月
大使の帰国に同調したかのように、ザイール政府内に、ザイール河に橋を架けようとするわれわれのプロジェクトに対し、反対案が勢いを増しているとの情報が聞こえてくる。
運輸省の参事官筋から聞いた話だが、計画省にいるヨーロッパ人からの問題提起のようである。
反対案の内容は、次の通りだ。
現在われわれが進めようとしている、マタディ地点でザイール河を横断しようとするプロジェクトには、基本的に疑問を含んでいる。
それは、ザイール河の左岸を走って来た鉄道が、なぜここで右岸に渡らなければならないのかの点である。
この渡河地点は隣国アンゴラに近く、せっかく出来た橋が攻撃されやすいだろう。
もし国境を越えて、アンゴラ領内に入り、左岸を走ったままで大西洋に至るならば、橋はいらない。
それから、「マタディの上流で建設されようとしているインガダム地点で河を渡ってはどうか」という案もある。
これらの現在ルート反対案には、「その通り」とうなづきたいもっともな点もあるが、ここで揺れてはプロジェクト全体がゼロに戻る危険性があり、そうなればせっかく出来つつある日本とザイールとの結び付きが、白紙になる。
そこで私としては、しばらくの間頑迷に現行案に固執しようと考える。
そもそもこのプロジェクトには、日本にもザイールにも反対意見があり、いささか強引にここまで進んできた感がある。
撤回するにしても、もう少し情勢が進み、これまでやって来たことに、将来に向けて何らかのプラス面が見え始めたからにしたい。
ザイール政府に派遣されている外国人の専門家が「日本の調査費は高すぎる」と、大臣に話したとの噂も聞く。
私がようやく責任者に納まったばかりのOEBK(バナナ・キンシャサ間輸送路整備公団)の廃止論もささやかれているようだ。
担当範囲をバナナ・イレボ間に拡大して、責任者を日本人でなく、ベルギー人かザイール人にするとのうわさだ。
海外での日本人の未熟さを突きながら、自分たちの城を守りたいと言う動きだろう。
写真は、ソフィーさんのマイページ(写真5,800枚)、
http://4travel.jp/traveler/katase/
をご覧ください。
スイスの写真が美しい、片瀬貴文さんのマイページ(写真2,400枚)
http://4travel.jp/traveler/takafumi/
もご覧ください。
2009-07-28 17:34:32|
お仕事
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2009年6月27日(土)
社内の新空港研究会は、関心の深い者の自由参加だったが、それだけに議論に熱が入った。
私もいくつかの問題点を指摘したり、解決策を提案したりした。
たとえば、海中にこれだけ大きな島をつくった場合、島自体とその基盤が開業後も変形を続けるだろう。
その時、島の上に建てられた建物や、鉄道線路、道路などが壊れずに耐えられるだろうか。
この問題を解決する手段として私が提案したのは、それぞれの柱と基礎の間に調節可能なジャッキを挟んでおき、地盤の変形に応じてその高さを加減することだった。
あるいは、鉄道や道路でやって来た人を、いかに便利に機内に誘導するか。
当初は空港ビルの各階に道路を張り付け、鉄道でやってくる人は地下一階レベルで移動する案だった。
しかしこの案では、将来最初の空港ビルがいっぱいになって第二ビルを建設するとき、二つのビル間の連絡が不便となる。
そこで、歩く旅客の動きを、二階レベルでするように提案した。
その結果、二階レベルに張り付く予定だった道路が無くなり、空港島全体の道路計画が非常にシンプルになる。
そして結果だが、旅客が便利になっただけでなく、100億円を超える工事費の節減があったと推定される。
空港島内の道路案内表示板計画は、わが社にとって初めての仕事だったが、コンピューターを使ってのシミュレーションで、多くの人に模擬ドライブをさせ、一番失敗が少なく確度の高いものを選んだ。
実際に設置した結果は評判がよく、このシミュレーションを使った計画方法の優れたことは実証された。
その後羽田空港第二ターミナル開業時の案内板が誤解されやすくて、たくさんのドライバーから非難を浴びたのに比べ、大きく傑出した出来だったと、今でも誇りに思っている。
神戸淡路大震災の時には、水の中に漬かった空港島の被害がどんなにひどいだろうかと心配したが、思ったほどでなくホッとする。
この震災に際しては、会社や自宅が被害を受けただけでなく、協会と学会のそれぞれ支部長をしていたので多忙を極め、空港の無事がどれほど有難かったかを身にしみて感じたものだ。
2009-07-12 20:28:43|
お仕事
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