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世の中はウソが多いから生き辛い

政治、宗教、社会、みんな、みんなウソばっか。今の世の中、生き辛いのは、ウソが多いから。世の中のウソも、自分のウソもブチ破れ。そうすれば、少しは生きやすくなる。コメントは左下からどうぞ。


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波立つ気持ちを静めるのが仏法

連日、自殺・殺人が起っている。
その一方で、ヨンさまフィーバーだ!
悩める者と、そうでは無い者との、
二極分化が激しいのが、我が国の特徴である。
「浮かれる側」と「落ち込む側」。
わしは常に「落ち込む側」の立場に立って、モノを考えたい。

自殺や殺人と言うのは、
人間の感情がオーバーヒートした時に起るのである。
思うようにならない事が続くと、感情はオーバーヒートする。
「思うようにならない」と言うが、
昔の人間に比べれば、随分と、恵まれているはずなのである。
しかし、昔の人は10望んだうち、5出来たと言って喜んだが、
今の人は、100望んで、20しか出来ないと、嘆いているのだ。
今の人は、昔の人の倍、恵まれていても、
望む事が多過ぎるから、気持ちが満たされないのである。
人の欲を煽っているのは、完全にテレビの責任である。
テレビのスターと同じような美しいモノを着たい。
テレビのスターと同じような美味しいものを食べたい。
テレビのスターと同じように美人を妻にしたい。
テレビのスターと同じように有名になりたい。
テレビに登場するスターと自分の人生を、人は無意識に比較し、
その理想と現実のギャップが激しければ激しいほど、苦悩する。
要領の良い者は、せめて金だけは得ようと、
官僚社会や大手企業での出世、ベンチャーでの成功を目指すが、
その道から外れた人間(男や独身女性)は、どうなるのか?
ストレスが押さえられず、暴発して自殺や他殺をおかすのだ。
抜本的には、テレビ中心、芸能スポーツ至上の社会システム
そのものを変革する必要があるが、
今、現在、苦悩の中心にある者を、どう救えば良いのか?
自殺を考えている者で、ここを読んでいる人もいるだろう。
そういう人に対し、何を語ればいいのか?
自殺ギリギリの人が、
ワラにすがる思いで学会の信仰に賭けている場合、
我々は、学会組織の矛盾を語り聞かすだけで良いのか?
それだけで、その人を救えるのか?
沈みかかった船に乗っている人に向かって、
救命ボートも出さずに「その船は沈むよ!」
と声をかけるだけで良いのだろうか?
救命ボートを出してあげねば、脱出出来ない人もいるのだ。
わしが仏教を語って来たのは、救命ボートのつもりである。


欲望が刺激された場合、気持ちが波立つ。
波立った気持ちで判断すると、正常な結論を下せないのだ。
欲望を刺激されやすい世の中だからこそ、
波立つ気持ちを、いかに静めて行くかが、大切なのである。
冷静であれば、正常な判断を下しやすくなる。
仏教とは、第一に、波立つ気持ちを静める手段なのである。

学会員時代、いくら題目を唱えても、
イライラが増すばかりと言う事が、しばしばあった。
この原因は何か?
学会の指導が間違っているのか?日蓮仏法がおかしいのか?
脱会してから、わしはある事を試みた。
2年以上やって来たが、そろそろ公表しても良いだろう。
それは、日蓮曼陀羅とは別角に、観音を祭ったのである。
日蓮曼陀羅には法華経と唱題、観音には観音経を唱えた。
つまり、日蓮仏法と観音信仰との比較検証である。
並行してやっているので、現世利益面での比較は出来ぬが、
観音を拝んだほうが、精神的には数段、安心出来た。

結論から言うと、学会式にナンミョーホーレンゲキョーと、
ハイピッチに唱えると、精神状態が興奮してしまうようだ。
また、日蓮の曼陀羅自体が、造形的に安心感をもたらさない。
文字曼陀羅と言うのは、思想を表す為に用いるには良いが、
信仰の対象としては、適さないのではないか?
曼陀羅正意論は、思想的に理解出来るが、
実際の信仰には適さないのかも知れない。
曼陀羅正意論は、もともと御利益仏教への反発の意味だが、
実際は曼陀羅信仰の学会や大石寺は御利益仏教となっており、
釈迦の立像を拝む佼成会のほうが御利益仏教を否定している。
仏像を拝んでも「法信仰」は成立するのである。

日蓮曼陀羅からは「ほとけ」の情愛を感じる事も出来ず、
諸仏の名が書き並べているだけで、見ただけでイライラする。
観音は、最初は抵抗があったが、次第に親しみが沸いて来た。
造形的に情愛を上手に表現しており、安心感をもたらす。
波立つ気持ちを静める手段としては、
わしの体験的には、観音信仰の方が勝っていた。
ちなみに今月の大白蓮華に『宇宙根元の法である妙法と一体となるので、無限の智慧、無限の慈悲が湧き、無限の勇気が出て来ます。』とあるが、みなさんは、唱題でそんなもの出て来た経験はあるだろうか?わしはない。そんな信仰など虚構なのだ。

題目を唱えても良いが、ナンミョーホーレンゲキョーではなく、
無心に、ゆったりとナムミョーホーレンゲキョーと唱えると、
穏やかな精神状態になるようだ。
念仏も、ハイピッチにナンマンダブと唱えるよりも、
ゆったりとナームアーミダーブと唱えると、落ち付く。

本来、仏法とは、生活そのものが「行」であるから、
究極的には、本尊も呪文も必要ないのであるが、
それは達人の立場であり、初心者は儀式があったほうがいい。
感情が抑制し切れなくなった場合、
仏壇に向かい、何かを唱えると、不思議と冷静になれるのだ。
何を本尊として、何を唱えるべきかと言う問題については、
仏教の目的は、第一に冷静になる事であるから、
本尊は、自分が最も安心出来て、慈愛を感じるものが良い。
わしは、たまたまそれが観音だったと言う事である。
唱えるものは、本尊に準じて来る。
日蓮曼陀羅ならば、南無妙法蓮華経。
阿弥陀如来像ならば、南無阿弥陀仏。または光明真言。
不動明王ならば、不動明王の真言。
本尊と、唱える言葉は、一致しなければならない。
わしの場合は、観音に向かい、まずは観音経偈を読み、
その後、ネンピーカンノンリキ、ネンピーカンノンリキ、
ネンピーカンノンリキ・・・
と繰り返し唱える。
この場合、願をかけずに、無心に唱える事。
願をかけないほうが、願は成就する。
また、無心に唱える事は、念じるのと同じ事である。

生きるのが限界だと言う人がいたなら、観音を試してみよ!
昔から日本人を救ってきた信仰である。
最後に、試してみる意味はあるだろう。
観音像は高価なので、これ↓で充分本尊になる。
(商品番号 81022 がオススメ)
http://www.rakuten.co.jp/naka/521117/521246/521568/ 
観音経偈↓
http://enlighten.fc2web.com/kannonnkyou.html

2004-11-30 00:00:00| 仏教と創価学会を考えるコメント(0)トラックバック(0)

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